James Setouchi

2024.10.16

 

国木田独歩からいくつか     加えて、青春について

 

1        国木田独歩(1871=明治4~1908=明治41)

 文学史の教科書では、浪漫主義から自然主義へ、といった位置づけがされる。初期はワーズワースの影響もあり自然の中で自己の魂を解放する作風だった。やがて運命に流される人生の悲惨さを描き取る、自然主義的作風に移った、などと一般的には評される。本当だろうか。

 1871=明治41年千葉県生まれ。父は播州龍野藩(譜代)の没落士族。但し本当の両親は別にあるのではないか、という見方もある。本人も自伝的作品で「実の親は誰か」を問うている。研究者によれば真実は不明だそうだが、本人の作品に漂う孤独感は、出生・育ちにおける孤独感を反映しているかも知れない。父親の転勤の関係で山口、広島など瀬戸内海沿岸の諸地域に住む。16歳で上京し神田の法律学校、東京専門学校(早稻田の前身)の英語普通科、英語政治科などに学ぶが中退。植村正久(キリスト教徒)や徳富蘇峰(民友社)、矢野龍渓(『経国美談』の著者。政治家でもある)らと知り合う。佐々城信子という女性と結婚するが信子の失踪により離婚。『武蔵野』は1898=明治31年『国民之友』に発表。武蔵野の自然を讃えた傑作。星亨(立憲政友会)と政界進出を企てるが星の暗殺(1901=明治34)で挫折。『運命論者』(1902=明治35)『運命』(1906=明治39)あたりから、人生の悲惨を描く自然主義的作風(注1)になった。名声が高まるが、肺の病を得て、1908=明治41年に死去。37歳だった。他に『忘れぬ人々』『牛肉と馬鈴薯』『富岡先生』『少年の悲哀』『非凡なる凡人』『春の鳥』『竹の木戸』『二老人』など。(集英社日本文学全集の巻末年譜や浜島書店の『常用国語便覧』などを参照した。)

 

注1:自然主義というと、島崎藤村『破戒』(M39)田山花袋『蒲団』(M40)をまず挙げる。独歩はその先駆、ということか。

 

(1)『武蔵野』1898年発表。ワーズワース(イギリスの浪曼派の詩人)の影響か。郊外の自然の美とそれを鑑賞する喜びを描く。名文である。

 

 『武蔵野』では、完全な自然そのものをよしとするのではない。東京の町はずれにつながる野原、田畑、林、点在する農家などを美としている。「ここに自然あり、ここに生活あり」、それは北海道の原野とは異なる趣だ。

 

 武蔵野の中心には東京がある。西側では、渋谷道玄坂、目黒行人坂、早稻田鬼子母神などが町はずれだ。かつ富士山・秩父山脈国府台を眺め、振り返ると東京の町が見える。雑司ヶ谷、板橋、川越近傍、立川、多摩川、登戸、二子あたりが武蔵野のラインだ。東では亀戸、小松川、木下川、堀切、千住近傍へ。

 

 水流は多摩川、隅田川以外にも小金井の流れ、神田上水、目黒川、渋谷川などなど。「これが今の武蔵野の平地高台の嫌いなく、林をくぐり、野を横切り、隠れつ現われつして、しかも曲がりくねって、・・流るる趣は春夏秋冬に通じて吾らの心を惹くに足るものがある。」そこに月が照り、農夫がいる。街道があり、市街とも宿駅ともつかぬ場所がある。散歩し描写すると詩興が湧く。町はずれの光景は何となく社会の縮図を見るような思いをなさしむる・・・

 

 こうして書いていて、紹介に全くなっていないと感じる。独歩の詩情あふれる名文を本文でお味わいください。

 

 『武蔵野』を読むと、東京郊外の武蔵野に住みたくなる。当時と今は東京も変わっているが、それでも林や田畑が多少でも残り、富士が見え、振り返れば東京が見える、そういう場所はある。吉祥寺などが人気なのは、国木田独歩の描いた、都会と自然の接点に魅力があるからだろうか。

 

 但し、昨今は「東京の郊外」と言えば、セブンイレブンとスタバとスーパーがあり、少し行けばマンションやアパートがある、どこも同じだね、というイメージで言う場合が多い。かつ、日本列島全体が「東京の郊外」化し均一化・画一化している、などと言われる。(三浦展ほか)国木田独歩の時代とは少し違うようだ。独歩が、武蔵野には人の生活がある、と言うとき、そこには、関東大震災(1923)以前の、いや、日露戦争(1904~05)以前の、まだ江戸以来の人々の暮らしの名残をとどめる人々の生活があったに違いない。

 

 東京は、これから地方の衰退によって人口が更に肥大化し、やがて人口減少に転じ、高齢者率の高い町になると言われている。さてさて・・

 

(2)『牛肉と馬鈴薯』1901=明治34年。

 都心の明治倶楽部という場所で、若者たちが議論している。「馬鈴薯派」は、理想を追い、清教徒精神を持ち、北海道に移住して、農業をしながら生きよう、とする。「牛肉派」は、それは理想に過ぎないのであって、金が取れてうまいものが食える方がいい、と言う。議論に参加していた岡本は、自分の失恋体験を語りながら、自分にはただ一つの「不思議なる願い」がある。と言う。それは何か? それは、習慣(カストム)の力に絡めとられることなく、この不思議なる宇宙を驚きたい、驚異の念を持ってこの宇宙に俯仰屹立したい、という願いだ。多くの人はそういう驚きを持たない。そういう驚きを持ちたい、と岡本は願う。岡本は友人からも理解れず誤魔化して笑ってみせるが、その顔には苦痛の色があった。

 

 当時の、煩悶する哲学的青年の一人と言うべきか。『こころ』の哲学的青年「K」は明治30~33頃東京帝大に在学し33年(1900年)の卒業を前に自死してしまう。清沢満之(浄土真宗系)の浩々洞は1900年設立。内村鑑三(キリスト教)の夏期講談会は1900年から。人生とは何ぞや? を問い煩悶する青年が明治後半には多く現われた。

 

(3)『富岡先生』1902=明治35年

 恐らくは長州の吉田松陰門下で、朋輩は皆立身出世しているが、自分はそうならず郷里で塾の先生をして、しかしそういう自分の人生を受け入れることが出来ず、出世した朋輩や自分を相手にしない弟子たちへの不平不満を述べ続ける、富岡先生なる人物が主人公。最後に少し救済があるのだが・・・国木田独歩にも立身出世コンプレックスがあったのだろうか? それともそういう人物を戯画化して描いて見せたのか。

 

 なお、モデルは山口県の田布施にいた人物とされている。田布施! 岸、佐藤、安倍晋三首相らのゆかりの土地だ。長州が帝国を作ったので、自分も立身出世しなければならない、とするコンプレックスが強い土地柄なのかは、私は知らない。作中では、「富岡先生は、人物よりも人爵の方がありがたいとは、見下げ果てた方だ」とする見方も書き込んでおり、この方向に救いがある。

 

(4)『少年の悲哀』1902=明治35年

 哀切な心情の漂う佳品。瀬戸内海のある田舎で出会った、一人の女性の運命に思いを寄せる。年は十九か二十。売春宿で働いている。親とは早く死に別れた。たった一人の弟とは生き別れた。近いうちに朝鮮に連れて行かれる。女性は突っ伏して泣いていた。女性のその後はわからない。

 

 1902年には日英同盟を結び、日露戦争を経て軍産複合体がより強固な形で出現し、1910年朝鮮半島併合など、大日本帝国が暴走していく途上だ。その過程で名も知れぬ若い女性が売春婦として朝鮮半島に行かされる。従軍慰安婦だ、とは書いていない、念のため。でもそれでなくても過酷な運命に見舞われた人が沢山いたのだ。帝国の華やかさ、強大さとは違う、当時の人びとの生活の現実をリアルに見抜き描いていると言える。しかも、この瀬戸内海の港は、明示していないが、山口県である可能性もある。『富岡先生』の舞台は山口だろう。帝国を作った人々の陰で泣く、無力な女性。国木田独歩はただの自然賛美者ではすでにない。

 

(5)『運命論者』1902年=明治35年

 鎌倉の海岸で出会った、アルコール依存症の男の半生。どうやら国木田独歩の生涯が重ねられているようにも感じる。この男は、自分は原因結果の法則(因果関係、と言うべきか)だけで人生ができているとは思えない、どうしようもない運命というものが確かにある・・と泣きながら語る。

 

(6)『春の鳥』1904=明治37年

 地方で教師をしていた時に出会った、ある子どもの思い出。その子は鳥の真似をしようとして崖から飛び、落ちて死んでしまった・・哀切な佳品。だんだん小説がうまくなっていると感じる。

 

(7)『二老人』1908=明治41年

 石井という老人はささやかな年金暮らし。自称「聖代の逸民」だ。その知人、河田さんは、離婚歴のある、貧しい老人だ。善人だが、不遇で、貧しく、かつ心の弱さゆえ、公金を使い込んでしまう。

 

 これも、日露戦争勝利後の、貧富の差が拡大し、不器用な生き方しかできない人が陥る窮境を見て描き取っているので、大日本帝国の繁栄の裏面を鋭く指摘してみせようとしたのかもしれない。明確に「帝国は矛盾がある」とは書かないが、読者にはそれがわかる。

 

 平岡敏夫は、かつて明治40年前後の「青春文学」を並べ、漱石『三四郎』(明治41年)や鴎外『青年』(明治43年)は崖の上の青春(本郷台の上に帝大がある。そこの学生の青春)、独歩の『窮死』(明治40年)は崖の下の青春、と呼んだ。独歩は、帝国の華やかな出世エリートには見えなかったものが見えたに違いない。(『三四郎』は実は大久保での鉄道自殺を書き込んでいる。漱石には見えている。鴎外は・・ベルリンの『舞姫』には帝国の最下層で苦しむ少女を描いているし『雁』(明治44~大正2)にも示唆している。)同じものを石川啄木も見ただろう。田山花袋『田舎教師』(明治42年)は、北関東で教師をする青年が主人公だ。立身への焦りはあるがそれを果たしえぬ焦燥と煩悶が描かれる。

 

 

 ここで「青春」とは? 

 

 青春とは、スポーツをすることだ、という図式は、実は昭和45(1970)年頃のTVドラマの影響でできたもので、本来はそんな狭いものではなかった。上に見る如く、青春とは、自分とは何か? 人生とは何か? 人生をいかに生きるべきか? を問う哲学、倫理学、人生論だった。そこでは女性とは何か?(男性目線なので)、女性とは謎だ、不可解だ、恋愛とは? も問われた。また立身出世とは? 栄達とは? 国家とは? 等も問われた。明治40年前後の「青春文学」ではこれらが問われた。漱石『三四郎』では三四郎が美人の里見美禰子を見て「矛盾だ」と呟く。鴎外『青年』の小泉純一は坂井夫人の姿に幻惑する。社会背景としては、上京した学生などが多く存在した、彼らの前に女学生なるものも出現した、幕末維新の若者のように人生の目的があらかじめ与えられてあった時代が終わり人生の目的を模索する段階に入った、西洋から諸思想が流入してきた、高学歴でも必ずしも立身できるわけでもなくなった、などの状況がある。

 

 もともと「青春」は「朱夏・白秋・玄冬」と同じく中国古来の言葉だった。西洋から心理学が入ってきてadolescenceの訳語として「青春」を充てた。成長期であり情緒の不安定な時期でもある。

 

 明治以来若者の悩みは尽きなかった。北村透谷は日清戦争以前に自死した(明治27年)。藤村操は「人生不可解」と言って自死した(明治36=1903年)。漱石『こころ』(大正3年発表)の「K」の死は恐らく明治33=1900年。明治後半には煩悶青年が多数出現。国木田独歩もその流れの中にいると言える。北村透谷を取り巻く青春を島崎藤村が小説『春』に描いたのは明治41年。このころ『三四郎』『田舎教師』『青年』と青春小説が次々と発表されたのは上記の通り。『こころ』(大正3)の若い「私」は明治末年の学生だ。

 

 大正の『白樺』派で有名な志賀直哉有島武郎も、出身階層は富裕層ではあるが、親の世代が立身出世を遂げたのに対し、それでいいのか? と悩み、内村鑑三の門をたたいた。

 

 貧富の差が大きくなり社会主義思想・無政府主義思想なども入ってくると、それらに傾倒する若者も現われた。

 

 林芙美子『放浪記』(昭和3年~)や佐多稲子『キャラメル工場から』(昭和3年)には、十代の少年(少女)労働者の青春の日々が描かれている。その周辺には社会主義者や無政府主義者もいた。

 

 伊藤整『青春』(昭和13年)は、大きく言ってこれらの延長上にあると言えるかもしれない。

 

 だが、昭和の軍国主義の時代には、これらの問いを封じ込め、青春とは国家の為に死ぬこと、それに照準を合わせて死のうとすることにほかならなかった。『葉隠』はそこで読まれた。『聞けわだつみの声』を見よ。

 

 戦後は青い山脈のもとで男女でハイキングをする(石坂洋次郎の小説『青い山脈』は昭和22年)、歌声喫茶でロシア民謡を歌う、などの青春が出現した。あるいは、『キューポラのある町』(小説は昭和34~35年、映画は昭和37年、主演吉永小百合)では貧しい工場町のそれでも明日を夢見て生きる青春が描かれた。映画『明日は咲こう花咲こう』は昭和40年。主演の吉永小百合は、地方で感染症と戦う保健婦を演じている。

 

 昭和45(1970)年に中学から高校への進学率が(沖縄を除き)全国で80~90%に達した。つまり、高校生はもはや高学歴エリートではなく(それまでは高学歴エリートだった)、どこにでもいる普通の大多数の平均的な存在になった。すると生徒指導上の理由もあって若者の体力をスポーツで消耗させておこう、部活動は全員入りなさい、という考え方になる。TVも普及し『青春とは何だ』(TVドラマは昭和40年、夏木陽介主演)、『これが青春だ』(TVドラマは昭和41年から、竜雷太主演)、『飛び出せ!青春』(TVドラマは昭和47年、村野武範主演)などがヒット、青春とは、グラウンドでラグビーやサッカーをするものだというイメージが広がってしまった。東京五輪(昭和39=1964年)の影響もあり、勝利至上主義・スポ根(スポーツ根性もの)が流行。森田健作主演のTVドラマ『俺は男だ!』(昭和46=1971年~)では森田健作が剣道部の主将。主題歌で「青春の勲章は挫けない心だ」と歌う。この環境で育った人々が親になり教師になり、学校の体育系部活動でその価値観を再生産している。

 

 ひどいのは、「スポーツをする子はいい子、スポーツをせず本を読むのは左翼危険分子」(文言は正確ではないが)という誤った認識が一部にあることだ。某首相がこれに近いことを言った。愚民化政策も甚だしい。スポーツをして大きな体で女子をひどい目に合わせるのがどうして「いい子」なのか? 本を読むのが左翼危険分子だったら、科挙合格者は全員左翼危険分子なのか? (そもそも左翼が危険分子かどうかわからない。右翼国粋主義者の方がよほど大抵のことをしている。幕末から昭和20年までのテロを総覧してみよ。)(言うまでもないが、子どもの頃から本を読み語彙も豊富で思考力・コミュニケーション力の高い人の方がいい。)

 

 ここ二十年くらいか、「青春してる」とは男女交際をしている、という意味で若者が使うようになった。明治に戻ったのか? そうではない。明治の場合は人生と社会と宇宙を問う哲学的煩悶の中に恋愛の煩悶もあったのだが、平成・令和の場合は哲学的煩悶がないわけではなかろうが、その響きはあまり感じられない。私は現代の若者ではないのでよく知らないのだが、映画やTVドラマで管見するかぎり、浴衣を着て花火を見に行く、TDLやUSJに行く、などなど、イベントにお金を払って出かけていく印象だ。是か非か。

 

 Wikiによれば、少女漫画『アオハライド』は2011~。青年漫画雑誌に『アオハル』というものがある(2010~)。NHK放送文化研究所2023年11月1日の記事には「アオハル。「青春」を訓読みしてカタカナで表記した,若い世代を中心に流行していることばだ。ドラマや漫画,曲名にも用いられ,「アオハル祭」なる文化祭も各地で開かれている。いつの時代も,若者は斬新な造語の使い手だと再認識する。」とある。「アオハル」は「青春」の訓読みだと思うが、その中身についてはよく知らない。そこに哲学があり、自分や社会のあり方に対する問いがあるかどうか。

 

 令和の若者は男女交際をしない。「推し」活をする。それを「青春」と呼ぶかどうかは知らない。