James Setouchi

2024.8.30→2024.9.14総裁選のさなか(1)

 

仕事と労働、勤勉であるべきか など(加筆して再掲) 

モランテ『禁じられた恋の島』から発展

(長文です。)

 

 エルサ・モランテの『禁じられた恋の島』では、アマルフィ人ロメオが「私」の父に財産を譲るときに、ロメオは「父」に言った。・・今お前にちょっとした財産を譲る。お前は働かないで暮らせるようになる。仕事はうすのろがすることで、立派な男のすることではない。努力も時として喜びを与えるが、労働ではダメだ。無償の努力なら有益で快いが、努力は無益で想像力を損なう。万一金が不足して働くときには、想像力を損なわない仕事をすることだ。例えば探検家のような。しかし、仕事を持たないことが一番だ。パンしか得られないなら、パンだけで我慢する生活をしてもだ。・・

 

 ロメオの主張はおおむねこのようであるが、少し概念を書き改めてわかりやすくしてみよう。ここで「報酬のために致し方なくする努力」を「労働」と呼び、「報酬のためではなく喜びを与える努力」を「仕事」と呼ぼう。すると、ロメオの主張は次のようにまとめ直すことができる。

 

「労働」は報酬のためであり想像力を損なう。「仕事」は報酬のためでなく想像力を損なわない。報酬(生活)のために「労働」することがあっても、それは最低限にとどめるべきだ。生活水準は低くて構わない。大切なのは想像力を損なわないことだ。

 

 こうロメオが言えるのは、ロメオに多くの財産があり、また養うべき家族がいないからではある。が、必要以上にいわゆる「生活水準」「賃収入」「所得」を高くすることはないのであって、人間として大事なもの(ここでは想像力)を損なってはならない、とロメオが言うのは、一考に値する主張かもしれない。

 

 ヘンリー・ミラーも、要約すれば、「アメリカの資本主義システムに組み込まれて嫌な仕事をするのは嫌だ、自分は文筆で精神界に偉業を為すのだ」とうそぶく。(その実彼女が高級娼婦をしていて食わせて貰う。ヒモであり人間のクズだとも言えるが・・)(『ネクサス』ほか)・・ヒッピーの元祖のような考え方というべきか?

 

 キリストは、「神の愛と神の義をまず求めよ、そうすれば皆与えられる」と言った。マルタが働きマリアがキリストの話を聞いたとき、あくせく働き客人のもてなしに精力を使い果たすマルタに対して、神の声をじっくり聞くマリアをよしとした。もちろん上記のロメオは無神論者であってキリストとは違うが、つまらない「労働」によって大切なものを損なうべきはない、という主張は同じだ。

 

 ロメオの主張は作者エルサ・モランテ自身の主張ではないが、「想像力を大事にする」という言い方には、作家である作者の主張がこめられているかもしれない。

 

 ここで、「仕事」「労働」「勤勉」というものについての捉え方をおさらいしてみよう。(辞書的な知識ではあるが。) 2回に分ける。

 

1      仕事、労働、勤勉について

 

 古代ギリシアの哲学者たち(プラトン、アリストテレスら)は、観想的生活をよしとし、労働は奴隷のすることだと考えた。ソクラテスは靴屋だったが広場で若者と議論ばかりしていた。暇(スコレー)において議論を楽しむ。そこから僧院・学院(スコラ)、学校(スクール)ができる。何を議論したか? 金の儲け方ではない。相手を打ち負かす弁論術の練習ではない。ソフィストの弁論術とフィロソフィアとは違う。ディベートと対話の哲学とは違う。善とは何か? 愛とは何か? 友情とは何か? など非常に価値のあることがらについて対話(問答)しながら哲学的議論を繰り返したのだ。

 

 ヘシオドスは『仕事と日々』でバルバロイ(ギリシア人ではない野蛮人)は日々の仕事に生きがいを持っていてよい、と考えた。

 

 初期キリスト教ではどうか。パウロが天幕職人だった、ペテロが漁師だった、と聖書に書いてあるが、そこはさほど重視されない。地上の職業はどうでもよいのであって、肝心なのは神に仕える信仰生活だ、という価値観があった。キリストは「空の鳥も野の花も、農業や工業をしていないが、神は養って下さる」と言った。(あなたはどの職業につきますか? どの会社のメンバーですか? 年収は? 税金はおいくら払っていますか? などということは、二の次だ。神の目から見たらどうでもいいことだったのでは。)

 

 中世キリスト教でも、神に祈ることが大切であって、外界に対して勤勉に働きかけ何かを生産することなど、二の次だったろう。修道院では自給生活をしただろうが、それを経済成長(拡大再生産)につなげることはしない。キリストは「誰でも神と富とに兼ね仕えることはできない」と言った。

 

 デカルト以後の哲学者ゲーリンクスGeulincxはdiligentiaを「精神の自己集中を努力する徳」と考えた(小倉志祥による)。外界に働きかけて何かを生産するのとは違う。(工場と店舗を拡大し生産力を上げればエライのではない。)

 

 近代のベンジャミン・フランクリンはindustryを重視した。勤勉、勤労と訳すべきか。「時は金なり」と言ったのは彼だ。アメリカ独立期、資本主義勃興期の思想だ。同じ18世紀のアダム・スミスは人間の労働が豊かさ、国富を生むと考えた。「経済学の父」と呼ばれる。これは学校で学習する。フランクリンやアダム・スミスの価値観が現代の私たちの価値観・世界観に決定的な影響を与えていそうだ。(私はよく知らないのだが、労働を投入したものに高い値段が付くわけではなく、買いたい人がいたら高い値段を付けるのが現状ではないか? 真面目に働く人が報われてほしいと私は思うが、投機的で目端が利いて商機を逃さない人や会社が稼いでいる現状もあるのでは?)

 

 (マックス・ウェーバーが「プロテスタントの倫理が近代資本主義の精神を生んだ」と言った、とする俗説があるが、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読むと、間違いだ。ウェーバーは、両者に何らかの「選択的親和関係」が認められるとすればそれはどの点でか、究明しよう、とは言っている。「資本主義精神」は宗教改革の影響の結末としてのみ発生し得たとか、「経済制度としての資本主義は宗教改革の産物だ」などと言ってはならない、とウェーバーは明確に書いている。(岩波文庫135~136頁。))

 

 だが、真の豊かさとは何か? フランクリンやスミスの思想に、愛や祈り、例えば聖なるものに感動している時間はどう位置づけられるのか? 偉大だが売れない芸術家はどう位置づけられるのか? 

 

 マルクス主義は「奴隷が貴族を養っている、労働者が資本家を養っている」とし、革命によって資本を労働者のものにすれば、労働疎外は克服できる、と考えた。かつての職人は作った靴は自分のもので、仕事に喜びがあったが、工場制になってからは労働者は流れ作業の一部を担当しているだけで作ったものは資本家が握る。この労働には喜びがない。働く人にとっては労働疎外が起こっているので、これを解決しないといけない、という考え方のようだ。(よく知りません、すみません。)ここでも、例えば聖なるものに献身するヨガ行者や売れない芸術家はどう位置づけられるのか? 無神論者として宗教は阿片だ、との主張は聞いたことがあるが、美に傾倒し現実の搾取構造を無化しようとする芸術も阿片だ、ということになるのか? 

 

 ソ連が崩壊したからといって、資本主義に対するマルクスの問いかけが無効になったわけではない、とエライ先生が言っていて、納得した。ソ連はスターリンが非常事態に作ったかなり特殊な社会であって、マルクス・レーニンは「それは違う」と言うかも知れない。レーニンは後進国ロシアで革命を起こしたが、マルクスはもともと資本主義の進んだイギリスでこそ資本家と労働者の対立が最大化し革命が起きる、と予言した。実際にはイギリスは修正資本主義を採用し社会保障・福祉を充実させたので、イギリスでは革命は起こらなかった。つまりマルクスの予言は半分当たって半分外れたのだ、もし仮にマルクスの問いかけが全く間違っていたとしても、資本主義そのものに問題がないとは言えない、それは現実を見ればわかる、とそのエライ先生は言われた。なるほど・・

 かつ、最近では斎藤幸平ほかが、マルクスを晩期の資料をもとに解釈し直している。斎藤幸平の『人新世の「資本論」』は私のような素人にも一読できる。是非お読み下さい。どこかで聞きかじってきたマルクス観がひっくり返る。

 

 だが、アダム・スミスやマルクス主義では、労働によって生産せず、経済的価値を生産しない生き方はどう位置づけられるのだろうか小林秀雄は、死にゆく平家の者の上にも美しい月が昇る、と言った(『平家物語』)。川端康成も同様(『美しい日本の私』)。

 

 現代においてはどうか。「GDP」「効率」「人材育成」を声高に叫ぶ。

 

 その中で、魂の平安を説いて坐禅するヨガ行者や禅宗の僧はどうなるか。売れないアーチストは。大リーグでマネーを稼がず地元で老若男女がいりまじって幸せのためにやっている草野球は。地域の高齢者や障がい者のためにまた用水路の整備や下草刈りや石垣の保全のためになどでタダで働いて貢献している人々は。 

 宗教を商売にし金を儲けて教団を拡大する、絵画やダンスを商売にし世界に発信して金を稼ぐ、大リーグで巨額の契約金を稼ぐ、ブログで再生回数を稼ぐ、いつの間にかそこに価値を置きそういう人をヒーロー視する感覚になってしまっているのでは。

 

 障がいのある子や認知症の高齢者に愛情を具体的に注ぐには時間がかかる。「コスパ」「タムパ」の悪いところにこそ人間の真の豊かさがあるのではないか。これは繰り返されてきた問いだが、何度でも繰り返し問いかけるべきだ。 

 

 日本では光源氏は会社を経営して経済成長をめざしたりしない。女性との交遊や和歌の贈答や年中行事には励んだかも知れない。法然上人親鸞上人は念仏を説いたが、もっと働いて稼げとは説いていない。在家でも救われる、金を稼ごうか稼ぐまいがそんなこととは無関係に念仏一つで救われる。阿弥陀如来は勤勉に金を稼いだ人を優遇するなどのケチケチした存在ではない。道元禅師はひたすら坐禅をしたのであって、ひたすら生産労働や会社経営をしたのではない。

 

 近世からか? 世俗の営みにおいても禅の心で打ち込む、といった理屈が表に出てきて、ひたすら坐禅をせずひたすら俗事に打ち込む、という事態が見られるようになった。坐禅する姿がそのまま悟りの姿、であるならば、目の前の仕事に打ち込む姿がそのまま悟りの姿、と飛躍することは不可能ではないが、飛躍ではある。「剣禅一如」と言えば剣道をやっている人は舞い上がって嬉しくなるかも知れないが、落ち着いて考えれば、道元禅師は(釈尊は、達磨大師は)殺人を肯定などしていない。(念のために申し上げますが、剣道をやっている人を憎んでこれを言うのではありません。私の知っている剣道の先生は、尊敬できる方が多かった。)職人が手仕事に命を賭けるのにも何かしら通ずるものがあるかもしれない。だから時間無制限のブラックワークを導入しやすかったのかも。「職人」「仕事師」と言えばカッコイイ。「オモテナシ」の心でひたすらご奉仕、1日16時間は働けますよ、というわけか。結局、家庭が壊れ、子どもは育たない。そうだ、独身主義の思想(荒野の素浪人ならできる。放浪の武芸者ならできる。)ではないか? 少子化するわけだ。もしくは専業主婦(夫)がバックヤードでタダで支えてくれることを前提とした思想。女性差別(役割分業)がなくならないわけだ。

 

 大日本帝国において「ひたすら今・ここのみを見つめ特攻で突っ込め、滅私奉公、そうすればあなたは悠久の歴史の中に生きる」などとした時にも同様の心性が働いていただろう。西田幾多郎は、禅宗の影響だろう、「絶対矛盾の自己同一」というよくわからない言葉で語ったが、気がついてみれば、「滅私奉公における自己実現」ということだったのだ。「近代の超克」を唱えた人々は結局全体主義者に限りなく近いことになってしまった。最近の、禅の心で生産労働や会社経営をする、というのも同様。いくつかの会社はカルト宗教のような理屈で社員を縛る。カリスマ社長の本が出て世間がもてはやす。危険だ。道元禅師は(釈尊は、達磨大師は)そんなことを教えていない。明治以降資本主義など近代のシステムが入ってきて、禅宗を世俗に取り入れるという日本の精神風土と合体し、モーレツ戦士やモーレツサラリーマンが生まれたに違いない。禅の心は資本主義に乗っ取られ利用されている。(漱石『それから』の代助はそういう東京を見て「最暗黒の東京」と批評し「世の中が悪いから僕は働かない」と言う。彼は明治帝国の非人間性に対する根源的な批判者なのだ。)「師弟同行(どうぎょう)」は戦時中疎開の際にしきりに言われた。これは直ちに禅宗ではないがその匂い(「行」だから)で受け取られているに違いない。この四字熟語は諸橋大漢和には載っていない。つまり中国にはない。多分日本の造語で、軍国主義に利用された。掃除の「黙働」「黙動」も全国の半分くらいの都道府県の小中学校で言っていたと思う。これも禅宗の匂いがする。サラリーマン養成の学校教育に利用されて終わっているのであって、真に仏陀の世界に開かれているかどうか。先生も生徒もひたすら黙って掃除に打ち込むのだ。その訓練は工場で働くときに「役立つ」。掃除ならまだいいが戦闘行為ならどうか。部活動の先生がひたすら練習に打ち込めと言っていたが、何のために? 「この一球は絶対無二の一球なり」とテニスの世界では聞くが、そんなことはない。そこに「絶対」があったら家族を養うことも神を信仰することもやめないといけない。禅宗の変形であって、日本人の福田某の言い出したことなのだ。西洋のテニス界では定着するだろうか? 

 

 令和の若者は昭和のモーレツサラリーマンとは少し、いやかなり違う。「コスパ」重視という点では大きく言えば近代の産物ではある。余暇を大きく取って聖なるものに祈りを捧げようとするなら少し違ってくる。「今の若者がおかしい」のではなく「明治以降が歪んでいた」のかもしれない? 

 

 では、怠けていいか? というと私などは違和感がある。何を勤勉に努力するか、が問題なのだろう。金のため、富国強兵のため、金メダルのため、虚名のため、わが藤原一族の支配権のため、・・・全て空しい。真に価値あるものとは? 聖、愛、正義、善、真、美、知、仁、勇などなどの諸価値を想起したい。とりえずギリシア四元徳、キリスト教三元徳、儒学の仁義礼智信などから勉強を始めればいい。

 

 近年声高に主張されがちな、GDP至上主義、経済・経営至上主義、経済・経営のための効率・成果至上主義などなどは、全ておかしい、非人間的だ。これは繰り返し問い直されている。おかしい、と問い、できる改革からすることが大切だろう。お蔭で少しは変わってきた。北欧にヒントがあるかもしれない。

 

(2)に続きます。

 

(参考になるかもしれない本)

聖書、仏典、法然・親鸞・道元の本、『論語』『孟子』

ベンジャミン・フランクリン『フランクリン自伝』

マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

小林秀雄『平家物語』(昭和17年)

川端康成『美しい日本の私』

法然『選択本願念仏集』

夏目漱石『それから』

佐多稲子『キャラメル工場から』・・小学校を中退して工場で働いた。不安定雇用。

林芙美子『放浪記』『風琴と魚の町』・・同様に、工場に出たり行商に出たりした。同上。

大熊由紀子『寝たきり老人のいる国いない国』・・社会福祉の古典とも言える本。

堀内都喜子『フィンランド 幸せのメソッド』

ブレイディみかこ『ウエストサイドをほっつき歩け』・・イギリスの状況。現物支給があるとわかる。

筒井淳也『結婚と家族のこれから 共働き社会の限界』(光文社新書2016年)・・有益。

石川啄木『一握の砂』『悲しき玩具』

栗原康『サボる哲学 労働の未来から逃散せよ』(NHK出版新書、2021年)も参考になる。

 

適菜 収『自民党の大罪』祥伝社新書2024.8・・これはすごかった。1990年代の橋本内閣あたりから説き起こしている。