James Setouchi
2024.8.24
第171回芥川賞受賞作(令和6年7月)から
朝比奈 秋『サンショウウオの四十九日』
1 朝比奈 秋:1981年生まれ、京都府出身。『塩の道』で林芙美子文学賞、『サンショウウオの四十九
日』で芥川賞。西村賢太『苦役列車』と田中慎弥『共喰い』を読んで衝撃を受け純文学を本格的に読み始めた。消化器内科の医師でもある。(文藝春秋R6年9月号の作者紹介および本人へのインタビューなどから)
2 『サンショウウオの四十九日』
ネタバレしてしまいます。(すごくだらだらした感想文のようになってしまいました。)
面白くはあった。人間とは何か、生きること死ぬこととは何か、を問うた本ではある。但し医学的アプローチが多い。哲学的・宗教的アプローチは少しあるが少ない。
設定が非常に特別で、このような設定は見たことがなかった。
(舞台は現代の平塚。親戚の住む岡山や京都も出てくる。よくある普通の家庭、ということか。)
勝彦は生まれたときに若彦ともう一人を胎内に宿していた。「胎児内胎児」が二人いたわけだ。「もう一人」は育たなかったが、若彦は生まれてきた。二人は兄弟として登録された。
杏と瞬は、一つの体で二人。二重人格ではなく、もともと二人の姉妹が同じ一つの体を共有しているだけ。一卵性双生児は300出生につき1組、「結合双生児」は20万出生につき1組(本文による)で世界に散在しているが、杏と瞬はさらに稀な例で、二人の距離が非常に近いというケース。→古代ギリシアのアンドロギュノス(プラトン『饗宴』)は頭や手足が二人分ずつある存在だが、杏と瞬はそれとも違う。芥川賞選考委員の平野啓一郎は『日蝕』(平野自身の芥川賞受賞作)で両性具有のヘルマプロディートスを描いたが、当然それとも違う。「勝彦と若彦のケースは(本文では50万出生に1組とあるが)実際にはありえず、杏と瞬のケースは実際にありうる」と誰かが書いていたが、本当か。
彼ら四人はちゃんと育った。
勝彦は病弱で手術を繰り返しながらだが岡山の大学教授になり、子どもも育てた。もちろん自分とは何かの問いは問い続けてきたようだ。若彦も仕事もして結婚し杏と瞬を育てた。
杏と瞬も今29歳で明るく生きている。二人で大笑いしたり喧嘩したり。仕事は二人がかりなので人よりも沢山できるが給料は一人分。学校の授業料は二人分払わないといけないのだろうか?
奇異の目で見られたりしたこともあるが、差別され苦しんだ描写は少なく、むしろごく普通の双子の姉妹としての描写が多い。普通に接する学校の友だちもいる。被差別体験は、あっさり書いてある。本当は苦しんだはずだろうが、あえて前面に押し出していない。体育の教師が「あしゅら男爵」と揶揄した、などとある。→あしゅら男爵とは「マジンガーZ」という昔のアニメに出てくる悪役。興福寺の阿修羅像は顔が四面ある。興福寺の阿修羅は仏法の守護神で、人気がある。これも結合双生児(しかも四つ子)と言えば言える。本作ではそうは言っていないが。
家の人は愛情がある。親の煩悶もあったかも知れないがそれはあまり書かれず、子どもにとって愛情深い親、という印象だ。
結合双生児はかつては差別された歴史もある。そこを掘り起こして批判してもいいが、作者はその手法を採らない。悩みもあるが何とか生きている仲良し姉妹、という印象で、読者の偏見を取り払おうとしているのかもしれない。作者のもくろみの一つはここにあるのかもしれない。作者はさすが医者で、臨床の現場にいればいろんな人がやってくる。臓器を共有して二人の人格(姉妹)が仲良く生活する例は現実にはあるのであるから、多くの読者への啓発にはなっただろう。誰が普通で誰は変、といったいわゆる「常識」(その「常識」こそが偏見)は粉砕され、誰でもが同じ人間だ、というあたり前の事実に立ち戻ることができる。
30歳前で何かと人生を考える若者たちの物語、と言えば言える。(又吉直樹の『火花』はお笑い芸人の、ソン・ウォンピョンの『三十の反撃』は韓国の踏んだり蹴ったりの女性の、三十才頃の人生の挑戦だ。)但し本作は就職や恋の悩みではなく、直面している事態が違う。結合双生児という医学的に珍しいケースで、いかに人生を考え生きるか、という話だ。
作者は臓器について詳しい。個々の内臓の共有について、どこまでありうる話なのかは私は知らない。結合双生児の先輩たちの例も出てくる。タチアナ・クリスタ姉妹は頭部(視床の橋)で結合している。杏の考察によれば、双生児を基準にすれば、双生児でないタイプは<単生児>と呼べる。彼ら単生児や非結合双生児は、結合双生児とは違って、自分の体が自分一人のものだと思い込んでいて、自分の体は実は自分のものではないというあたり前のことが理解できない。→たとえばこの記述からは、大多数が正常で健康で健常者、少数が異常で病気で障がい者、という見方ではダメなはずだ、という作者の考えが透けて見える。誰でもそれぞれの個性を持った尊い存在なのだ。それでいいのだ。→では、医療の可能性はどこに生ずるのか? という原点の問いが出てきそうだ。
勝彦が亡くなり葬儀、四十九日を行う。そこで杏と瞬は生と死について思いを巡らす。「意識」は「思考や感情や本能」から独立している、つまり肉体が死んでも「意識」は死なない、その先は書いていないが百年後に土に帰る、このような見通しのようだ。
→焼かれて骨壺に入れば「みなおなじ」という点に川上未映子が注目する(文藝春秋R6年9月号279頁)が、もしかしたら作者はそこを強調したかったのか。
だが、肉体が消滅した後、それと独立の筈(はず)の意識はどこへ行くのか? は語られていない。「大胆な着想の割に、思想的成果が乏し」い、と平野啓一郎が厳しい批評をしている(文藝春秋R6年9月号270頁)。確かにそうで、生と死については古来多くの人が真剣に考え続けてきた。医学部の知見では及ばないテーマを、先人は懸命に考察してきた。この点は本作は甘いようだ。医師で、かつ従来の医学部の知見を越えようとした人にキューブラー・ロス(『死ぬ瞬間』)と矢作(やはぎ)直樹(『人は死なない』)があるが、どうか。宗教なら、死後の世界への考察は大量にある。通常の医学部の知見では、それらを形而上学にすぎない、科学の扱う領域ではない、と切って捨てるだろう。だが、医学部の知見で問えないところこそが死にゆく者、生きている者にとっては大事なのだ。俗流民間信仰から高名な哲学者まで、ここを問うているのだ。例えば浄土教では阿弥陀如来の名を呼べば誰でも救われる、と真剣に思索を深める。孔子は怪力乱心を語らなかったと言うが、儒教は本来葬送や招魂再生の儀礼を含んだ宗教でもある。それが仏教の葬送儀礼における死体の崇拝や位牌に取り入れられた。(加地伸行ほか)。本作では「バガヴァッド・ギーター、あるいは何かの宗教書」への言及があるので作者は多少勉強したのかも知れないが、本作では深められず、「肉体が死んでも意識は死なない」という結論の補強に使っているだけのように見える。煩雑さを避けるために哲学や宗教は省いたのかも知れない。
題名の「サンショウウオの四十九日」の意味は?
サンショウウオは、高1の時博物館で見た陰陽図からの想像。二人は一体だが食い合っているのではないか? と杏は恐怖してきた。杏が精神分析の本の類を読んできたのも、煩悶のためだろう。が、ある日くしゃみ一つでその悩みは吹き飛んだ。自分たちは特別ではない、とあっさり受け入れることができた。→ここは簡単に済ませすぎている。経験的にはそういうことはあるが。
伯父・勝彦の四十九日。京都の祖父母の家へ。瞬は扁桃腺を腫らし高熱が出る。杏が生と死に関する東洋の宗教書を読んでいるのを瞬は感じる。・・突然、瞬は死んだ。杏を残して自分だけが死んだと瞬は直観した。
瞬は、生まれたときから杏のすぐそばにいたが、発語せず、存在が見つけてもらえなかった。5歳の時杏の体の中から初めて発語して、初めて存在が見いだされた。瞬はザリガニを見て思わず喋ってしまったのだ。→人間が立ち上がるときというのはこういう感じなのかと思って私はドキドキした。出生届もその時出してもらえた。以来姉妹は二人でなんとかやってきた。その瞬が、不意に、今自分だけが死んだ、と自覚する。死んでも意識は消えない。「わたし」(瞬)の語りが「私」(杏)の語りにスライドする箇所がある。瞬はやはり死んだのか。
・・・だが、高熱を経て、瞬は生きていた。→瞬は死んでしまったのかと私はドキドキした。それだけ読んでいて瞬の実在にリアリティを感じてしまったということだろう。瞬が生きていてよかった。私はそう感じた。このあたりは、作者に筆力があるということか。(もしくはラノベ的手法なのかもしれないが。)「あらたな生を受けて生まれ変わったのだとわかった。」瞬は改めて生きようとし、杏を病院に誘う。→ここは、伯父の四十九日において、瞬が死と再生を経験する、という図式で書いているのだろう。陰陽図に見られるサンショウウオのような姉妹だが伯父の四十九日で何かが変わった、ということか? 四十九日と重ねる必然性はよくわからなかった。伯父の勝彦が四十九日でどこか(例えば再生の瞬として)に転生したとするのか? だが、転生については言及がない。
人から見つけて貰えなかった人間があるとき見つけて貰った、という物語でもある。瞬は杏が寝たあと祖母の丸い目を見て大笑いした。「笑うと体の隅々に自分が行きわたる感覚があった。細胞の一つ一つまでわたしは染みわたっていくと、ようやく自分が今ここにいると実感できた。・・その間だけ自分の存在が生の実感として確信できた。」他者のまなざしに見つめられることと、身体感覚の充実感。人は生きて存在している喜びを本来ならもっと実感していいはずだ。現代社会ではどうか。