James Setouchi

2024.8.24

新古今和歌集

 

新古今集の他の歌1

 

 新古今集は、八代集の最後であり、古代の美意識の頂点を示し、中世の美意識の出発点をなす。定家以外にも多くの歌人がおり、秀歌がいくつもある。いくつか紹介する。

 

1 春立つ心をよみ侍りける

み吉野は 山もかすみて 白雪の ふりにし里に 春は来にけり 摂政太政大臣藤原良経

吉野は 山も春霞でかすみ、昨日まで白雪が降っていたこの古い都(吉野離宮)にも 春は来てしまったのだなあ。

 

春立つ:立春

吉野:奈良の南方。皇室ゆかりの地。雪また花の名所。

ふりにし里の「ふり」:雪が降った里の「降り」、と、古びた古里(旧都)の「古り」との掛詞。

山も・里も:遠景に山、近景に里。

春の部の冒頭の歌。

 

本歌:春立つと いふばかりにや み吉野の 山もかすみて 今朝は見ゆらむ

(拾遺集、壬生忠岑=みぶのただみね)

   立春とは言うばかりであるのか、いやそうではない、実際に春は来ているから、吉野の山も春霞でかすんで 今朝は見えているのだろう。

 

本歌では吉野の山の春霞を歌う。朝の伸びやかな世界。

良経歌では、山と里を対比、昨日までの雪と今日の春霞を対比。空間と時間の軸を入れて奥行きが深まった。

 

 

 

新古今集の他の歌2

2  春のはじめの歌

ほのぼのと 春こそ空に 来にけらし 天の香具山 霞たなびく 後鳥羽上皇

ほのぼのと 春が空に来てしまったらしい 天香具山には 春霞がたなびいいている

 

本歌:ひさかたの 天の香具山 この夕べ 霞たなびく 春立つらしも 万葉集・柿本人麿

   ひさかたの天香具山に この夕方に春霞がたなびいているよ 春が立ったらしいよ

 

本歌:二句四句切れ。「らし」は根拠を持った推定。立春と判断する根拠は、天香具山の霞のたなびきだ。春の訪れそのものを歌う。春は五行説により東方から来ると信じられていた。天香具山は大和三山の一つで、神聖な歌。

後鳥羽院歌:三句切れ。柔らかい調べになっている。本歌にはない「空」を入れることで、山の背景に空が見える。空間の広がりを感じる。新古今集2番の歌。古代のイメージを込めた歌を新古今は1,2番に据えた。

ひさかたの:「天」「空」「光」にかかる枕詞(まくらことば)。

 

新古今の他の歌3

3 百首歌たてまつりし時、春の歌

山深み 春とも知らぬ 松の戸に たえだえかかる 雪の玉水 式子内親王(しょくしないしんのう)

山が深いので 今がもう春ともわからない場所で春を待つ 松で出来た門に、 春らしく寒さが緩むのか、雪溶けの美しい玉のような水が たえだえかかることだよ。(私は一人長い冬をこの山里で過ごしてきた。)

 

山深み:山が深いので。「深み」は形容詞「深し」の語幹「深」に接尾辞「み」をつけ「深いので」の意味。同様に「遠み」=遠いので、「高み」=高いので、「多み」=多いので、など。ここは山奥で高地だから寒く、麓と違ってまだ春とは分からない、と言うのだ。

まつ=「待つ」と「松」の掛詞。

松の戸=白楽天の「松門に暁到りて月徘徊」を踏まえる。

内親王=天皇の娘。

式子内親王=後白河天皇の娘。

 

新古今集のその他の歌4

112千五百番歌合に

風通ふ 寝覚めの袖の 花の香に かをる枕の 春の夜の夢 藤原俊成女(むすめ)

春の明け方。春風が通ってくる。それで目が覚めた。袖には、風で落花する桜の花の香りが

漂っている。桜の花が風で吹き込み 花の香りのただよう枕で私 は春の夜の(恋の?)夢を見ていたことだよ。私はまだ夢心地だ。

 

「寝覚めの袖」「花の香」「かをる枕」「春の夜の夢」と妖艶華麗な雰囲気を重ねている。「の」

を多用し流麗なリズムになっている。体言止めで余情を醸しだす。

「花」は当初「梅」のつもりで作者は作ったが、新古今集では桜の落花が薫るものとして配列されている。

 

新古今集のその他の歌5

128五十首歌奉りし中に、湖上花を

花さそふ 比良の山風 吹きにけり 漕ぎ行く舟の 跡見ゆるまで 宮内卿(女)

桜の花を誘って散らせる 琵琶湖近くの比良の山の風が吹いてしまったなあ おかげで桜

が散り湖上に散り敷いている そこを漕いで去って行く舟の航跡が見えるほどだ

 

比良の山:琵琶湖畔、桜の名所。

 

本歌:拾遺集「世の中を 何にたとへむ あさぼらけ 漕ぎ往く舟の あとの白波」(沙弥満誓)(哀傷歌)

  世の中を何に喩えようか。夜明け方に 漕いで去って行く舟の 航跡の白波のようだ。しばらくは残っていてもやがて消える。無常なものだ。 

 

原歌:万葉集351「世の中は 何にたとへむ 朝開き 漕ぎいにし舟の あとなきがごと」(沙弥満誓しゃみまんせい)

  世の中の無常の道理は、何に喩えようか。朝出発して漕いで去った舟の航跡がないようなもので、全ては無常だ。

 

原歌(万葉集)は、大伴旅人の酒をほむる歌の連作の次に配置してある。大陸渡来の仏教の世界観(無常観)を九州で歌ったものか。

本歌(拾遺集)は、哀傷歌に分類されているので、無常観を踏まえつつ人の死を悼む歌として理解しているか。

宮内卿歌(新古今集)は、それらを踏まえつつも、「航跡がない」ではなく「湖上に散り敷く桜の花で航跡が見える」とした。絵画的な美しい情景を示した。(しかもそれらもいつかは消えるにせよ。)比良の山と琵琶湖の立体的・空間的構図を用いた。

宮内卿は、生没年未詳。女。後鳥羽院の女房。夭折した。

  

 

新古今集のその他の歌6

389 和歌所の歌合に、湖辺の月といふことを

鳰(にほ)の海や 月の光の うつろへば 波の花にも 秋は 見えけり(藤原家隆)

琵琶湖よ、秋の夜の月光が移ろいゆき映るので、「秋がない、波には花がある」と古歌に歌われた琵琶湖の波の花にも、秋の気配は見えることだなあ。

 

本歌:古今集、秋、草も木も色変はれども わたつ海の波の花にぞ 秋なかりける

   文屋康秀(ふんやのやすひで)

   秋になり草も木も色づいたが、海にはまだ陽光が輝き、波は春の花のようだ。ここには秋はないことだなあ。

 

 本歌は、昼間の海で、陽光が輝き、そこには波の花(見立て)があるので、秋はない、と言う。理知的な「見立て」を用いている。明るい。

 家隆歌は、秋の夜の湖で、月の光が秋らしく移ろっているので、秋の気配がある、と言う。幽玄で繊弱。

 どちらが好きだろうか?

 

うつろふ:「うつる」の未然形に「ふ」(上代は助動詞、のち接尾辞)をつけると「移り続ける」意味になる。同様に「かげろふ」「よばふ」「住まふ」「まじらふ」など。

   映り続ける+移ろう、の意味か。

鳰の海:琵琶湖のこと。

 

 

新古今集の他の歌7

639摂政太政大臣家歌合に、湖上の冬月

志賀の浦や 遠ざかりゆく 波間より 凍りて出(い)づる 有明の月 藤原家隆

志賀の浦(琵琶湖)よ 冬の夜、寒さのため湖面が岸に近いところから氷っていく。波打ち際が沖へ沖へと遠ざかっていく。その波の間から、冷え冷えと氷ったような有明の月が 昇ることだ。

 

志賀の浦:琵琶湖。

志賀の浦や:初句は字余り。6文字ある。この「や」(間投助詞)に込めた思いは?

遠ざかり行く波間:沿岸部から凍結するので、波打ち際が遠ざかっていく。聴覚で聞こえる。歌い手は波打ち際にいて、闇の中でその音を聞いている。

有明の月:陰暦二十日過ぎの月が、深夜に出る。

 

本歌:さ夜ふくるままに みぎはや こほるらん 遠ざかりゆく 志賀の浦波(後拾遺、快覚法師)

   夜がふけるままに 水際が氷るからだろうか 琵琶湖の海岸の波が 遠ざかることだ(「らん」は現在の原因推量。水際が凍結するから、波音が遠くなっていくのか? と推量している。)

 

 本歌も家隆歌も、冬の琵琶湖の夜を歌う。歌い手は琵琶湖の岸にいて、闇の中で波の音を聞いている。波の音がだんだん遠くなる。波打ち際から凍結していくからだ。それを闇の中で聞いている。

 本歌は、聴覚・時間のみ。原因・現象の因果関係を述べて理屈だ。

 家隆歌は、聴覚・時間の世界に、寒々とした有明の月を昇らせる。視覚・空間を入れた。ただの理屈ではなく、まさに「湖上の凍月」を詠んだ。これが新古今の世界だ!

 家隆は、しかし、現地では詠んでおるまい。京都の貴族の家で詠んだにちがいない。所詮観念と言葉の遊びに過ぎないと考えるか、それとも美の至極と考えるか?

 家隆は、俊成に歌を学んだ。定家と併称される。389,639とも本歌取りで、見事だ、と私は思う。

 

 

新古今の他の歌8

987東(吾妻)の方(かた)へまかりけるに、よみはべりける

年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり さやの中山(西行法師)

年老いてから 再び越えることが出来ると 思ったか、いや、思いもしなかった。命があってこそ、このさやの中山を越えることが出来たのだ。

 

さやの中山:静岡県掛川市にある険しい山道。京都からみると随分遠い東国。西行は30才ころここを一度通り、今69才で再度ここを通って東国に下向している。

まかる:退出する。謙譲語。帝のおられる都から地方へ下るのは、謙譲語で「お下り申し上げる」イメージ。

越ゆべし:ヤ行上二段活用の動詞「越ゆ」の終止形+可能の助動詞「べし」の終止形

思ひきや:「き」は過去の助動詞。「や」は反語の係助詞。

命なりけり:寿命があったおかげであるなあ。

 

本歌:春ごとに花の盛りはありなめど あひ見むことは 命なりけり(古今集、春、詠み人知らず)

   春ごとに花の盛りは たしかにあるに違いないが、お互いに会って見るようなことは、命があってのことであるなあ。(ありなめど=ラ変「あり」+強意「ぬ」の未然形+推量「む」已然形+接続助詞「ど」)

 

 西行法師:旅に生き旅に死んだ歌人。花と月を詠んだ。もと北面の武士。俗名佐藤義清(のりきよ)。俗説に依れば待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)という年上の高貴な女性に叶わぬ恋をして破れたから(?)、二十代で妻子を捨てて出家し旅と風雅に生きる身となった。仏教信仰なのか、芸術(風雅)なのか? 彼にとってどちらが重いかは議論の余地がある。後の飯尾宗祇や松尾芭蕉も西行に憧れた。

 西行には『山家集』という私家集(「私歌集」ではない)がある。

願はくば 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」(願うことなら、桜の花の下で 春に死のう あの釈尊入滅と言われる その春二月の 満月の頃に)・・その通りになったと伝えられている。(釈尊とは、お釈迦様。入滅とは、お釈迦様の肉体の死。)

 西行は、千載・新古今など勅撰集に252首入っている。

 

新古今の他の歌9

1034百首の歌の中に、忍恋(しのぶるこひ)を

玉の緒(を)よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする(式子内親王)

私の命よ、絶えるならば絶えてしまえ。命ながらえれば、秘めて忍ぶ力が弱り、この恋の思いが外に現われてしまってはいけないから。

 

玉の緒:玉を貫きつなぐ糸。ここでは「玉」=「魂」で、命。「絶え」「ながらへ」「弱り」は「緒」の縁語(えんご)。

な:完了の助動詞「ぬ」の未然形。

ね:完了の助動詞「ぬ」の命令形。

忍ぶる:バ行上二段活用の動詞「忍ぶ」の連体形。

・・もぞする」・・してはいけない。「もぞ+連体形」「もこそ+已然形」は、「・・してはいけない」「・・しては困る」「・・したら大変だ」と訳す。

 

式子内親王(しょくしないしんのう):後白河院の娘。出家した。

 

参考:思ふには忍ぶることぞ負けにける 逢ふにし かへば さもあらばあれ(在原業平)

                あなたと会うことに交換するので どうとでもなれ

   絶えはてば絶えはてぬべし 玉の緒に君ならむとは思ひかけしや(和泉式部)

                私の命の玉の緒に君がなろうとは

 「忍ぶ恋」は『葉隠』にもある。「恋ひ死なむ後の煙にそれと知れ ついに漏らさぬ中の思ひは」山本定朝(じょうちょう)の歌ではなく、1600年代の中院通村という人の歌を定朝が引いた。中院通村は朝廷と幕府の間で苦労した人だ。が『葉隠』では男女の恋ではなく、主君へのひたすらな忠誠の死を歌う。損得、ギブアンドテイク、御恩と奉公、双務的契約ではなく、ひらすらな無償の奉仕である。

 滅私奉公をよしとするか愚かとするか? 滅私奉公を権力者が下の者に強制するなら、ひどい悪政だ。では、母親が子にひたすら尽くすのは? 何でも見返りを求める(「で、いくら払って頂けます?」)昨今の風潮については? 滅私奉公を口にする人ほどあくどい打算で動いていたりすると・・?

 

 なお、「恋ひ死ぬ」については、佐藤雅代(山陽学園大学)他に論考がある。「恋ひ死ぬ」歌は古来山ほど詠まれている。がなぜこの式子内親王の歌こそ絶唱中の絶唱と言われているのか?

 

 

新古今の他の歌10

1191題知らず

待つ宵(よひ)に 更(ふ)けゆく鐘の声聞けば あかぬ別れの鳥は ものかは(小侍従)

あなたを待つ夜に 更けていくのを告げる寺の鐘の音を聞くと そのつらさときたら 「男女で会って 飽き足りないうちに 別れの朝の鳥の声が聞こえるつらさ」などは、ものの数であろうか、いや、ものの数ではない。

 

待つ宵:来ない恋人(通ってくるはずの夫)を一人待つ宵。

あかぬ別れ・男女で逢瀬を遂げても、飽き足りないうちに朝が来て別れること。「飽く」は飽き足りる、満足する。「ぬ」は打消の「ず」。

ものかは:反語。

 

この歌は、「待つ宵」と「帰る朝(あした)」のどちらが辛いかと問われて、答えた歌、とされている。彼女は「待つ宵の小侍従」と呼ばれるようになった、とある。

「待つ宵」には一人で鐘の音を聞く。恋人は来ない、と鐘の音が告げる。

「帰る朝」には二人で鳥(鶏)の声を聞く。もう別れて帰れ、と朝の鳥が告げる。

 

小侍従(こじじゅう)は高倉天皇に仕えた。女性。

 

 

新古今集の他の歌11

1599和歌所の歌合に、関路(せきぢ)の秋風といふことを

人住まぬ 不破(ふは)の関屋の 板廂(いたびさし) 荒れにしのちは ただ秋の風

人がもはや住まなくなった 不破の関所(古代には使われていたが今は使われていない)の板の廂よ、荒れてしまった後には、ただ秋の風が寒々と吹くばかりだ(その何もないとろこが、寂寥感があって趣深いことだよ)摂政太政大臣藤原良経(よしつね)

 

不破の関:古代の関所。岐阜県関ヶ原にあった。東国への入り口。桓武天皇の時代(平安初期)にすでに廃止されて久しい。

荒れにし:ラ行下二段「荒る」連用形+完了「ぬ」連用形+過去「き」連体形

 

 摂政太政大臣殿が関ヶ原に行ったはずがないので、都で頭の中で作った歌に違いない。「板廂が荒れている」などは他の歌にも良く出てくるテーマ。そこに月光がもれ入ったり、雨がたまらなかったりする。ここでは秋風が渺々と吹いている。

 

 ここからは私見。私は田舎も知っているので、山中の荒れた小屋に人気が無く秋風が吹くばかりだ、と言われても、あまり風情を感じない。(かといって新宿や六本木のけばけばしいネオンに心引かれるわけでもない。)では、なぜ摂政太政大臣殿は、このような風景を詠んだのであろうか? 想像だが、大臣殿の暮らす現場は、都で、権力闘争の渦巻く場所だ。文化(特に美)でさえ闘争の道具に使われる。それらの全くない場所、人気無く荒廃した不破の関所をただ吹く風、そういう世界に大臣殿もどこかで憧れたのではないか?

 

 ここから先は完全な飛躍。

 古代ユダヤ教では、「風」はルーアッハ(ヘブライ語)、プネウマ(ギリシア語)と言い、神の息、神の霊である。その目で読めば、この歌は全く違った意味になってくる。権力闘争と欲望にまみれた人々は一掃され、そこにすでに人はいない。ただ神の息(霊、風)だけがふきすさんでいる。それは終末の風景だ…

 「風」が核の風だったらどうなるか?

 大変恐ろしい風景だということになる。

 さらに牽強付会(けんきょうふかい)に言えば、大臣殿ははからずして終末の風景を予言してしまった、となる。

 こう解釈したらどうか?

 自由に再解釈し意味を付与できるのも楽しみの一つ、と言えば言えるかも知れない。が、

 まともな国文学研究者からは、「それは不可、トンデモ解釈だ」となる。笑われるだろう。だが、読者はしばしば、文章を解釈するときに、このようなとんでもない飛躍をしていないだろうか? 古い時代のものほど、成立した時の情報が失われているので、知らぬ間に誤った解釈・飛躍をしていることは、実は多い。誤釈・飛躍を防ぐためには、本文を丁寧に読み、注釈をつけながら読んでいくしかないのだ。「思ひて学ばざればすなはち殆(あやふ)し」と孔子も言っている。

 

 なお、もし前記のトンデモ解釈を、あえて根拠づけて証明しようとするならば、例えば、大臣殿がキリスト教・ユダヤ教の思想に触れていた、と証明する必要がある。シルクロード・大唐帝国を通じてキリスト教がある形で(例えば、お経に混入する形で)入っていて、大臣殿にその知見があったとすれば…? 思想史を書き換えることが出来るかも知れないが、そこまでに「変人」「学問的でない」「相手にするな」のレッテルを貼られ、苦労することになるだろう。やってみますか? 着想(妄想)としては結構面白いと思うのですが…?

 

新古今の他の歌12

1780 五十首歌の中に

思ふこと など問ふ人の なかるらん 仰(あふ)げば 空に 月ぞ さやけき

                         (前大僧正 慈円)

私が思うことを どうして 問う人が ないのでろうか 空を仰ぐと 月がはっきりと照り輝いていることだ

 

など:どうして

なかるらん:形容詞「なし」連体形「なかる」+現在原因推量の助動詞「らん」の連体形(「など」の結びで連体形、と処理する)

さやけき:形容詞「さやけし」の連体形。「ぞ」の結び。「き」だけ助動詞ではない。

 

 慈円:天台座主。比叡山のトップ。九条兼実の弟。つまり最高権力者グループ。しかし、建久七年の政変で、天台座主を追われた。1201年の作。このころ後鳥羽院に身の不遇を訴えている。上記の歌は、「自分は孤独だ、月が照るばかりだ」「自分は孤独だが、そらには仏教の象徴である月が私を照らしてくれている」「私は孤独だ、しかし、月にも喩えられる後鳥羽上皇様は、いつか私を分かって下さるに違いない」などと解釈できる。

 のち慈円は公武合体派として『愚管抄』を書いたが、後鳥羽上皇は討幕の意志を貫き、承久の乱を起こし、敗退し、隠岐の島に流されて、没した。

 慈円は歌人でもあり、新古今集には91首入っている。これは西行に次ぎ2位。

 

 平安末~鎌倉初期の政治・社会の情勢を反映しつつも、高度な歌の世界を展開したのが新古今集だ。古今集以来の八代集の最高峰と言える。

 

 

新古今集の他の歌13

588題知らず

み吉野の山かき曇り 雪降れば ふもとの里は うちしぐれつつ 俊恵(しゅんゑほふし)

吉野の山は一面に曇り雪が降ると、ふもとの里では しぐれがしきりに降り続けることだ

 

吉野:奈良県南部の山。雪と桜の名所。古く離宮があった。

しぐれ:秋の終わりから冬の初めに降る雨。

 

歌い手は、吉野山の見える吉野の麓の里にいるのだろう。山と里、雪と時雨が対照。山と里の空間的奥行きがある。寒々冷え冷えとした季節への移ろいがいいのだろう。この歌は、俊恵法師自身、代表歌と考えていた、と鴨長明『無名抄』にある。

 

 俊恵法師は、鴨長明の歌の師匠。六条源家の流れ。六条源家は、源俊頼・俊恵法師・鴨長明ら。(俊成・定家らの流れの御子左家とは対立する流派。)源俊頼は勅撰和歌集『金葉集』を編纂。著書『俊頼髄脳』など。俊恵法師は、その子で、勅撰和歌集『詞花集』などに多く入集している。鴨長明は、『方丈記』以外に『無名抄』『発心集』がある。

 

新古今14 補足

比べてみよう:朝日歌壇2022年8月14日(日) から

 

美原凍子さん 地に戦終わらず墓標また墓標悲しみだけを足してゆく夏(高野公彦選)

伊藤次郎さん 知らぬ間に減便廃線過疎の足返せたくても返せぬ免許(永田和宏選)

松田梨子さん 投げっぷり倒しっぷりがすごくって母じゃない母を知るボウリング

                      (馬場あき子・佐佐木幸綱選)

織立敏博さん 休むなくあまたの帽が上下して遠泳の子ら沖へと向かう(佐佐木幸綱選)

 

 これらは全て現代(令和)の一般人の作品だ。第一首はウクライナの戦(いくさ)を目の当たりにしつつ「夏」の「墓標」で自分たちの戦争(太平洋戦争)、また世界中の戦争をも思わせる。第二首は現代の過疎化と高齢化を歌う。これら二首は、自分の問題と社会問題が繋がっている。短歌はそれができる。(俳句では難しい。または、それを扱わないのが俳句だ、と言いたげな向きもある。)第三首は、ボウリングをする母を描く。第四首は遠泳の子ら(小学生に遠泳をさせないとすると中高生以上か?)を歌う。親(や教師)が子を見る、また子が親を見る。そこに人間としての暖かいまなざし、情愛がある。(もちろん第一首には人間としての熱い情愛、嘆きがある。)いずれもいい歌だ。新聞を読むとき、こういう面も読んでみるといいのだ。

で、新古今集のお歴々の歌と比べてみよう。どうですか?

 

 さらに、

西村晃さん ゼレンスキー氏がユニクロのCMに出るようなそんな日が早く来てほしい                           (高野・永田選)

園部洋子さん マイク持つ安倍元総理に写りこむ犯罪者となる前のその顔(高野・永田選)

木原幸江さん 孫の名で借りては倹約せぬ祖父母 赤字国債平たく言えば(高野・永田選)

 第一・第三の歌は「なるほどな・・」「たしかにな・・」と思える。第二の歌は「彼」のことだろう。はっとさせられ、考えさせられる。(「彼」のその一歩がなければ、あるいは、「彼」を追い詰めたものは何だったのか、など。)いずれも、高野・永田選だ。現代の諸問題を歌う歌を二人は選んでいる。新古今には出てこない歌だろう。撰者の意識・価値観によってどういう歌が採用されるか、ということはあるのだ。新古今集の撰者たちの意識・価値観を、現代の歌は、逆に照射する。歌とは何を歌うべきものか? の考察へと我々は誘われる。 

 さらには、和歌(短歌)は、人間の情動に食い込み、強力な力を発揮するから、危険でもある。恋愛の炎をあおり立てることもできる。時代社会とあい渉(わた)り、時代批判も出来るが、逆に国策を煽る歌も作れる。歌は危険なものでもあるのだ。演歌も応援歌も七五調でできていたりする。戦中は「海ゆかば・・」と戦意を高揚し特攻を煽ったなど、枚挙にいとまがない。与謝野鉄幹は「われ男(を)の子 意気の子 名の子 つるぎの子 詩の子 恋の子 あヽもだえの子」と歌った。

なお、

山添聡介さん 一学きのお楽しみ会 教室に大きなピタゴラスイッチ作る(高野・馬場選)

 これは、子どもの歌だろう。「一学期」を「一学き」と書いているのがかわいい。(親が添削しているかも知れないが。)小学校低学年くらいだろうか、子どもたちが教室で幸せそうにしている様子が目に浮かぶ。学校は本来そういう楽しいところであってほしいと思うのだ。