James Setouchi
夏目漱石『坊っちゃん』
漱石は江戸の末年の生まれだが、東京帝大(注1)大学院を中退し明治28年(1895年)4月松山中学の教師として赴任した。
その後熊本の旧制五高に赴任、
さらにロンドン(注2)に留学、
明治36年(1903年)東京に戻って東京帝国大学の英文科の講師になった。
で、『猫』『倫敦(ロンドン)塔』などを書き、
明治39年(1906年)『坊っちゃん』を書く。
明治40年(1907年)東大を辞し、朝日新聞に入社、職業作家として歩み始める。
す なわち、『坊っちゃん』は、松山中学時代に書いたものではない。松山中学を描いているかに見えるが、漱石は松山時代から10年を経て『坊っちゃん』を買いたのであり、漱石はこの間に熊本→ロンドン→東京と移動しながら経験を積んでいる。『坊っちゃん』が狙った世界は、一番小さくいえば東京帝国大学(赤シャツは哲学科教授井上哲次郎か)であり、もっと大きくいえば東京、あるいは日本そのものだ。うごめく松山中学の生徒たちは、うごめく日本人そのものだと見る方が正しいのではないか。そこで真っ正直な「おれ」は、正直の通用しないこの世の中に怒りをぶつける。清だけは「おれ」をわかってくれた。「おれ」は東京で街鉄の技手になり、清は小日向の養源寺の墓に眠る。
坊っちゃんは江戸っ子だ。源氏の子孫だと言っている。江戸は薩摩と長州に占領され、文明化の途上にある。古き良き清の世界は葬られた。
山嵐は会津の出身だ。会津は薩長と闘い賊軍とされた。
松山は長州ににらまれ朝敵(天皇の敵)とされた。
マドンナは、文明開化の時代の自己主張の強い女で、赤シャツを選びうらなりを捨てる。松山の人も結局は文明開化の潮流に飲み込まれているのだ。
この松山の地で、江戸出身の坊っちゃんと会津出身の山嵐が連合し、社会を牛耳る赤シャツ(文明開化)一派に卵をぶつける話、である、『坊っちゃん』は。すなわち、古き良き江戸のモラルが失われた、文明開化の時代は嘘つきで多数派工作のうまい陰謀家が勢力を持って支配している、と現代社会に対し異議申し立てをする物語でもあるのだ。
しかし、坊っちゃんの一揆主義的蜂起は何も生み出さず、坊っちゃんは敗北する。彼が生きる現実は、文明開化の東京の片隅にしかない(街鉄の技手として)。清は墓の中で彼を待っている。
『坊っちゃん』のあと『二百十日』『野分』と勧善懲悪小説を書き、職業作家になっての第一作は『虞美人草(ぐびじんそう)』だ。これも勧善懲悪小説だ。これらは、『猫』にもある文明批評を含む。
漱石はその後勧善懲悪の色合いは引っ込めるけれど、文明批評はずっと続ける。『猫』を書いたのが38歳の時で、それから10年くらいの間に代表作を次々と書いて、大正5年(1916年)、49歳で死ぬ。
注1 実は漱石が東京大学に入ったときはまだ東京帝国大学ではなかった。漱石は東洋の伝統をくむ漢学の教養の流れに身を置きたかったのかもしれないのだが、いつのまにか東京帝国大学に改組され、文明開化を担う「人材」たることを期待されてしまっていた、それは漱石にとって必ずしも本意ではなかった、という意見がある。同感だ。漱石の憂鬱の原因の一つはそのあたりにあったのでは。(嫂との関係などに矮小化すべきではない。)
言っておくが、「人材」とは、「木材」「石材」「金材」などと同じく、人間を何か他の目的のための材料にしてしまう発想でできている言葉だ。「人格」(それ自体が尊い)とは違う。「人材、人材」と言うべきでない。カントが聞いたら直ちに批判するだろう。イエスが聞いても。特攻体当たりのための「人材」、戦争で勝利するための「人材」、会社が儲けるための「人材」、外貨を稼ぎ出すための「人材」。役に立たなくなれば放り出される「人材」。すべて日本国憲法と教育基本法に違反している。ところが会社でも大学でも平気で「人材」という言葉を使っている。「グローバル人材を育てます」!? 使い捨ての!? 思考停止が起きているのだ。
注2 当時のロンドンは大英帝国の首都、世界最高の文明を有する街。日本が文明開化で目指すべき目標と言ってもよい。彼がまず見たのはヴィクトリア女王の葬列。つまり栄光の大英帝国の最盛期の終わりの始まりを見たのだ。(小森陽一『世紀末の預言者 夏目漱石』など。)漱石はそこでノイローゼになりつつ、前近代と近代、東洋と西洋のはざまに身を横たえもだえ苦しみ、文学とは何か(→つまりは文明開化とは何か)、を問い詰めた。対して正岡子規は上野(文明開化の博覧会場)の近くに住んで開化そのものへの懐疑は乏しかったのではないか。だから安易に日清戦争で興奮して従軍記者になったのではないか? 「坂の上の雲」を目指して足下を見なかった人びとが「富国強兵」にして「民貧しき」政策の推進者になってしまい、結局のところ短時日で帝国の滅亡をもたらしたのではなかったか?