James Setouchi

 

 志賀直哉『清兵衛と瓢箪』『赤西蠣太』『小僧の神様』『濠端の住まい』

 

1        志賀直哉1883(明治16)年2月~1971(昭和46)年10月

宮城県石巻生まれ。祖父は二宮尊徳の弟子で実業に尽力。父は当時銀行勤務、のち大会社の重役など。2歳の時東京へ。学習院に学ぶ。内村鑑三に入門(7年後に離れる)。武者小路実篤、木下利玄らと同級に。東京帝大英文科に進む(のち国文科)。結婚問題で父と不和に。1910(明治43)年『白樺』創刊(有島武郎らと)。1912(明治45)年『清兵衛と瓢箪』を書く。1913(大正2)年山の手線にはねられ重傷。城崎(きのさき)で療養。1917(大正6)年『城の崎にて』。『赤西蠣太の恋』発表。1920(大正9)年『小僧の神様』発表。1921(大正10)年から『暗夜行路』連載。(完結は昭和12年)。1923(大正12)年関東大震災。このとき京都在住。1925(大正14)年『濠端の住まい』発表。1971(昭和46)年死去。享年88。

                          (集英社日本文学全集21の年譜を参考にした。)

 

2 『清兵衛と瓢箪(ひょうたん)』1912(明治45)年執筆。29歳の作品。

 清兵衛という子どもは瓢箪が大好きでいつも磨いている。だが父親も先生も理解しない。清兵衛の瓢箪は壊され、捨てられる。だが、清兵衛が10銭で買って磨きぬいた瓢箪は、のちに600円という大金で売られることになる。→無理解な親や教師によって子どもが踏みにじられる話だ。志賀自身の体験が色濃く反映されているに違いない。私は清兵衛少年の、一つのことに夢中で懸命にそれを成し遂げ、かつ無欲な姿に、非常に感銘を受け、好感を持つ。しかも大人たちはしばしばこれに対し無理解なのだ。

 

3 『赤西蠣太(あかにしかきた)』1917(大正6)年『赤西蠣太の恋』の名で発表(のち改題)。34歳。

 舞台は仙台藩。赤西蠣太は幕府のスパイ。仙台藩の秘密を握っている。だが、それを幕府に届けるために、いかにうまく仙台藩を出奔(しゅっぽん)するか? に一工夫いる。赤西は美しい腰元・小江(さざえ)に恋文を出し、失恋を恥じて出奔する、という筋書きを組み立てる。赤西は大変な醜男だった。その後どうなるか? は読んでのお楽しみ。→『城の崎にて』と同じ年に執筆。その直前まで、父と不和、実家から独立、長女が生後2ヶ月で死去などのことがあった。『城の崎にて』は生と死を見つめる作品だが、光(生)を求めて生きようとする姿勢の表白でもある。『赤西蠣太』にも残酷な死が出てくるが、明るくユーモラスなタッチである。

 

4 『小僧の神様』1920(大正9)年発表。37歳。

 神田の秤屋(はかりや)の小僧である仙吉は、京橋の鮨(すし)が食べたくてたまらない。だが貧しいのでそうはゆかない。そこに若い貴族院議員のAが現われて…。以下読んでのお楽しみ。→志賀は子どもの心を描くのがうまい。同時に、若い貴族院議員A(志賀自身は仙吉よりもこちらに近い)の心理も面白い。志賀は「小説の神様」と呼ばれている。

 

5 『濠端(ほりばた)の住まい』1925(大正14)年1月発表。41歳。

 志賀は1914(大正3)年夏、一時山陰の松江に住んでいた。31歳の時だ。このころ伯耆(ほうき)大山(だいせん)にも登っている(のち『暗夜行路』で描写)。松江生活の断面を描いた作品。「私」は町はずれの濠に臨んだ小さな家に住む。対岸は城の裏の森。鳰鳥(におどり)、家守(やもり)、殿様蛙、鯉や鮒などの生き物がいる。隣は若い大工の夫婦。そこが鶏を飼っている。小さい雛たちが母鶏のする通りにする。雄鶏がいばっている。そこに猫がやってきて…以下略。→これは、生と死を扱っている。『城の崎にて』にも通底する作品だ。語り手「私」が「神の無慈悲」を語る。「私は黙ってそれを観ているより仕方がない。」と語り手は言う。あなたは、どう考えますか? これが小動物でなく人間の運命だとすると?