James Setouchi
井戸川射子『この世の喜びよ』第168回芥川賞(令和4=2022年下半期)
『文藝春秋』R5年3月号にある、芥川賞選考委員の評を参照する。川上弘美は「この小説の只事の中に引き込まれ、快楽をおぼえ、いつまでも読み終えたくなくなってしまった」と絶賛。奥泉光は、小説の成り立ち「何が書かれているか」と「どう書かれているか」のうち、本作は「後者への意識と工夫の点で傑出」と評価しつつ、「技法の洗練はともすれば世界を狭くしてしまう弊がある」と評する。松浦寿輝は「これほどの言葉を費やしてみせるミニマリズムの趣向をどう評価するか」「そこに『この世の喜び』というほど大仰なものが漲っているのかどうか」と否定的だ。面白い評価は山田詠美で、「そこはかとない恐ろしさを感じた」「ねえ、これ『喜びホラー』とでも言うべき作品なんじゃない?」とする。そう言われればそういう気もしてくる。吉田修一は「ショッピングセンターなどどこも似たようなものだと言われる。とすれば、全国に何千とあるその場所にも、きっと彼女や彼らがいる。」「このマルチバースを平和な風景と見るべきか、そこに虚無を感じ取るべきか。」と評する。平野啓一郎の「この『あなた』という穂賀への語りかけは、ヤング・ケアラーの少女への『あなた』へと転ずる最後の場面で、彼女の子育てを否定する、唯一の真の他者へと開かれる筈だったが、その対立性は曖昧に呑み込まれ、結局、全編を貫く自己承認回路へと吸収されてしまう」あたりが、正鵠を得ているのかも知れない。
主人公は穂賀という女性で、ショッピングモールの喪服売り場で働いている。夫あり、娘二人を育て成人させた。中学生の少女(家庭では幼い弟の世話をさせられている)知り合い、自分の子育ての経験を思い出しながら付き合う。職場の同僚、ゲームコーナーに入り浸るおじいさん。この狭い世界が小説のほぼすべてだ。現代の、大都市郊外の(いや「郊外」化したほぼすべての地域の)、どこにでもある風景。商品に囲まれている。人間の存在感が希薄だ。(主人公の生理的身体感覚はリアルだ。)それでもそこに人はそれぞれに何らかの事情を抱えながら生きており、希薄ながらも関係を持とうとしている。主人公は子育てしながら生きてきた。ここはリアルだ。自分の経験から少女に対し語りかけ励まそうとしている。それが届くかどうかは分からないが。題名はバッハの曲から取ったとして、(バッハはキリストが人の望みの喜びだとしたが)この神なき郊外の世界に喜びはある、と作者は語っているのだろうか。喪服を着て喪服売り場で働いていることから逆算すれば、いかにあがこうとも、すべては逆説で、神なき人の世の悲惨を描いているとも読めるのだが。)
なお、主人公は「あなた」と呼ばれ、二人称小説。文体は読点(「、」)が多くだらだらと長く、私には読みにくかった。
(井戸川射子は1987年生まれ。関学社会学部に学ぶ。兵庫県の高校の国語教師、詩人でもある。)
佐藤厚志『荒地の家族』第168回芥川賞(令和4=2022年下半期)
東日本大震災(2011年3月)とその後の人々の苦しみをリアルに描き込んだ作品。題名通りそこは「荒地」であり、家族は引き裂かれる。東北で暮らしてきた作者だからこそリアルに描けたのだろう。舞台は阿武隈川河口近辺の亘理(わたり)町(実在する)。主人公は植木屋の一人親方である坂井祐治。立ち上げた造園業の資材を津波ですべて失う。病で妻を失う。友人の明夫は津波で妻と子を失う。あの地震と津波が終わって一安心、ではない。あとあとまでいろいろなことが尾を引いている。重く苦しい描写が続く。さらに豪雨と河川の氾濫、土砂災害。問題は自然災害だけではない。人間社会で生きていくことの苦しさがそれに伴う。祐治は再婚するがそこでも平安は来ない。祐治は自分を責める。考えまいとして体力勝負の仕事に打ち込む。
どこに希望があるのか。祐治は亡くなった人を忘れない。いなくなった人のことも忘れない。大きな喪失感を抱えつつも、しかしギリギリのところで生を選ぶ。周囲に助け合う人がいないわけではない。東北の自然は美しい。息子の啓太は大人になりかかっている。老母は「早く飯食え」と祐治に言った。彼らはまさに「荒地の家族」なのであった。
(佐藤厚志は1982年生まれ。仙台東高校、東北学院大学英文学科に学ぶ。いくつかの仕事を経て仙台市の書店員をしている。仙台東高校の校長室だよりでも紹介されている。)