James Setouchi

 

  安岡章太郎『僕の昭和史』講談社文芸文庫

 

 安岡章太郎 1920~2013。

 高知県生まれ。軍の獣医の子ゆえ京城(ソウル)や東京など各地を転々として育つ。慶応義塾大学文学部予科入学、陸軍に応召、満州に送られるが肺結核で除隊、戦後復学するが、脊椎カリエスが悪化。51年『ガラスの靴』で芥川賞候補。「第三の新人」と呼ばれる。53年『悪い仲間』『陰気な愉しみ』で芥川賞。脊椎カリエスも全治。53年『海辺の光景』で野間文芸賞。他に『幕が下りてから』『走れトマホーク』『流離譚』『僕の昭和史』(2度目の野間文芸賞)『果てもない道中記』『鏡川』など。(講談社文芸文庫の著者紹介などを参照した。)

 

2 『僕の昭和史』

 三部作である。Ⅰ・Ⅱは1984(昭和59)年、Ⅲは1988(昭和63)年刊行。つまり昭和の終わりに出た本。自伝風エッセイである。

 

 扱うのは、Ⅰが大正天皇の崩御・昭和改元から1945(昭和20)年の敗戦まで、Ⅱが戦後から1960(昭和35)年の安保とアメリカ留学まで、Ⅲが1960年から1972(昭和47)年のあさま山荘事件までで、書いている時点(1980年つまり昭和の終わり)への言及も時々入る。安岡章太郎個人の目から見たまさに「僕の昭和史」である。

 

 Ⅰは昭和改元から敗戦まで。

 父が軍医だったので小学校時代は植民地下の京城(ソウル)→青森県弘前→東京と引っ越す。京城では、大正天皇の崩御に続き昭和天皇の即位の御大典があり皆が大騒ぎしたがそれは不況ムードを吹き飛ばすために政府が指導した「ヘンによそよそしい感じのするものだった」と記す。青森は京城よりも不便だった。東京では有名な進学重視の小学校に入るが宿題が多く不登校になる。そう、安岡章太郎は元祖・不登校の一人だったのだ。しかもそれは他の人よりも感受性が強く本質を見抜く鋭い観察眼を持っていたからに違いない。旧制第一東京市立中学(今の九段高校)(靖国神社の近く)に入学、二・二六事件を間近で体験。生徒としては怠け者でフランス映画を見たりして暮らした。旧制高校を受験するも三浪。この間日本はどんどん戦争に突き進んでいった。辛うじて慶応大学予科に入学、「外部の暴力を避けてその片隅に小さな別世界をかたちづく」ろうとしていた(p.131)。同人誌を作ったりするが勉強せず留年。徴兵検査で甲種合格となる。満州へ送られるが病気で入院。その翌日原隊はフィリピンに送られ結果全滅する。安岡は病のまま帰国、空襲下辛うじて生き延びる。この辺の事情は他の自伝的小説にも多く書いている。

 

 Ⅱは敗戦直後から1960年まで。

 安岡は病を押して闇屋の手伝いをしたり進駐軍のアルバイトをしたりして食いつなぐが、脊椎カリエスが悪化し寝たきりになってしまう。死にかけの安岡は寝たまま原稿用紙に向かい文章を書き続ける。それが功を奏して、安岡の病はなぜか全治。時代も復興に向かっていた。作品が芥川賞候補になり、文壇で認められ始める。いわゆる「第三の新人」グループと交流。高知にいた母親が認知症になり亡くなる。1960年の安保闘争のころロックフェラー財団の招きでアメリカ南部テネシー州に留学することになる。

 

 Ⅲは1960年から1972年まで。

 テネシー州ナッシュビルに留学してみると黒人差別の残る土地だった。南北戦争の敗戦を引きずっている土地で、安岡は日本の敗戦と重ね合わせて考察する。豊かで平和になった日本に帰国後、さらにソ連、欧州と訪問。セーヌ川のほとりで、戦時中入営前に友人の小堀延二郎と「いつかパリで会おう」と言っていた(p.219)ことを思い出す。小堀は死に、自分が生き延びて今パリにいる(p.602)。友人の小堀は、フィリピンのルソン島で戦死したと聞いていたが、本当は戦死ではなく日本軍の上官によって自決させられたという報告が飛び込んでくる。小堀小隊長はマラリアで倒れていた。米軍の銃撃・砲撃で味方の銃座はつぶされ隊員は散り散りになって陣地を離れた。小堀はその責任を取らされ大隊長によって引責自殺を命じられたというのだ(p.766)。これは一体どういうことか。1972(昭和47)年連合赤軍のあさま山荘事件があった。連合赤軍の森恒夫の上申書を読むとリンチを正当化する考え方が述べられており、旧日本軍隊のそれとそっくりだった(p.758)戦争は、また戦争の延長である戦後は、まだ終わっていなかったのだ

 

 「僕自身、…戦争で失われた何ものかをいまも追いつづけており、それが見附からないかぎり、僕の昭和史は終わっても〝戦後〟は終わりそうもない。」(p.772)