James Setouchi

 

坂口安吾を読もう

 

(自伝なのか虚構なのかわからないところがある。)

 

『石の思い』昭和21年

 坂口安吾の幼少期の回想。安吾は新潟の名家に生まれる。先祖は大変な富豪だったという。父親は代議士(国会議員)。安吾は十三人姉弟の十一番目である。父親とは疎遠であった。時折部屋に呼んで墨をすらせるだけの関係だった。母親は病弱だった。安吾は家にいつかず、小学校では悪いことをして遊び回り、中学(名門の新潟中学=旧制)では学校を休んで落第した。「私は『家』に怖れと憎しみを感じ、海と空と風の中にふるさとと愛を感じていた」とある。なお「石の思い」とは、中国の小説『紅楼夢』で石が悲願を持って人間なったことから、安吾が「オレは石のようだな」と思うことがあることからつけた題名のようだ。

 

『風と光と二十の私と』昭和21年

 安吾は名門県立中学校(旧制)で落第し東京の私立豊山(ぶざん)中学(真言宗の系列)に転校、大正の末年ころそこを卒業する。父親も亡くなり家は借金が残ったので、進学せず働くことに。世田谷の下北沢の小学校の分教場で代用教員をすることになった。(石川啄木なども代用教員をしていたことがある。)安吾は二十歳だった。当時について戦後回想した文章。あたりは竹藪と田畑だった。教員は主任を含めて5人。担当は5年生70人。安吾は同僚の教員や子どもたちを観察しつつ自分の生き方を考える。やがて安吾は教師をやめて仏教を学ぶために東洋大学印度哲学科に入学する。

 

『勉強記』昭和14年

 フィクション。安吾自身は仏教を学ぼうと東洋大学印度哲学科に入り悟りを開くため毎日4時間睡眠で勉強をし、ついに神経衰弱に陥る。その時期に材を取った小説だが、この小説はユーモア小説じたてになっている。

 震災後3年(大正の初年)、涅槃大学校印度哲学科に栗栖按吉(くりすかんきち)は悟りを求めて入学、梵語(サンスクリット語)と巴利語(パーリ語)の講義に熱心に出席した。やがて鞍馬六蔵先生という方にチベット語を教わる羽目に。だが、その先生は・・・また、高僧たちと交わり、竜海さんという絵描き志望の若い僧と知り合う。なにかしら感じる違和感。栗栖按吉はどうするだろうか。

 

『二十一』昭和18年

 安吾は坊主になるつもりで、睡眠4時間で頑張った。挙句に神経衰弱になった。外国語(サンスクリット語、パーリ語、チベット語、フランス語、ラテン語)を勉強することで神経衰弱を退治した、習った言葉はみんな忘れた、と書いている。

 

*坂口安吾を勧めてみる理由:中学・高校で太宰治『走れメロス』ほかを学習するが、少し深く勉強する人は誰でも知っているとおり、「生きていてすみません」の世界だ。ここから人生に対する懐疑が始まった場合、どのように克服すればいいのだろうか? 一つのルートが宮沢賢治である。吉本隆明は『悲劇の解読』の中で太宰から賢治へのルートを提示している。が、もう一つのルートが坂口安吾である。太宰と同じ戦後無頼派でも、根底に人間への信頼を持っていた安吾を、ここでは薦めてみているわけである。