James Setouchi
『沈黙』遠藤周作 各種文庫にある。文学全集にもある。
*作品紹介
神様って、いないんじゃない? という疑問を、ここまで考えぬいた人達がいる。
島原の乱が鎮圧(ちんあつ)されて間もないころ、キリシタン禁制の厳しい日本に潜入(せんにゅう)したポルトガル人司祭ロドリゴは、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問(ごうもん)と悲惨(ひさん)な殉教(じゅんきょう)のうめき声に接して苦悩し、ついに背教(はいきょう)の淵(ふち)に立たされる・・・。神の存在、背教(はいきょう)の心理、西洋と日本の思想的断絶など、キリスト信仰の根源的な問題を衝(つ)き、<神の沈黙>という永遠の主題に切実な問いを投げかける長編。(新潮社のサイトから)
・時代:江戸時代、島原の乱のあと、キリスト教が禁止されたころ
・場所:九州の五島列島のトモギ村、長崎ほか。
・登場人物:(ネタばれが含まれています。)
ロドリゴ:カトリックの宣教師。キリスト教が禁止されている日本に潜入し布教(ふきょう)しようとするが、捕らえられる。
フェレイラ:ロドリゴの師。先に日本に潜入し、とらえられ、信仰を捨てたと言われる。
ガルベ:ロドリゴの仲間。絶命する。
キチジロー:ロドリゴを案内する日本人・だが、キチジローは裏切る。迷い続ける人物であり、遠藤文学にしばしば登場する「弱い」人物の典型(てんけい)。
井上筑後守(ちくごのかみ):長崎奉行(ぶぎょう)。キリシタン(キリスト教徒)弾圧の指揮者。
キリスト(神):実はこの小説の隠れた主人公は、キリスト(神)である。キリシタンたちは幕府に弾圧(だんあつ)され、拷問にかけられ、ある者は死に、ある者は棄教(ききょう)する。その間、神は沈黙している。「なぜ沈黙しておられるのですか?」ロドリゴは問う。神は答えない。・・・だが、ロドリゴがついに踏み絵に足をかけようとした時、神は沈黙を破り、叫ぶ。「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。」と。
*作者紹介
遠藤周作:1923(大正12)年~1996(平成8)年。東京生まれ。幼年期を旧満州大連で過ごし、神戸に帰国後、11歳でカトリックの洗礼を受ける。慶応大学仏文科卒。フランス留学を経て、1955(昭和30)年『白い人』で芥川賞を受賞。一貫して日本の精神風土とキリスト教の問題を追及する一方、ユーモア作品、歴史小説も多数ある。主な作品は『海と毒薬』『沈黙』『イエスの生涯』『侍』『スキャンダル』『深い河』等。1995(平成7)年、文化勲章受章。1996年病没。(新潮社のサイトから)
*コメント
クリスマスやバレンタイン・デーは、ローマやゲルマンや北欧などの異教の神々への信仰を取り込みつつ発展してきたものだ。すなわち、キリスト教は、実は諸民族の信仰を取り入れつつ世界に拡大してきた。キリスト教は、ヒンドゥー教や仏教などと同様、世界宗教として柔軟な構造を持っていると言える。「ヒンドゥー教や仏教は柔軟・寛容であって排他的でないが、キリスト教は柔軟・寛容でなく排他的だ」と見るのは誤りだ。
この『沈黙』でも、一見するといつまでも棄教しないキリシタンが頑迷固陋(がんめいころう)であるかに見えるが、実は、幕府の役人がキリシタンを拷問にかけたのであって、キリシタンが幕府の役人を拷問にかけたのではない。不寛容で排他的なのは、実は幕府の役人(ひいては日本人)なのであった。遠藤周作は戦争中に日本社会が不寛容だったことの記憶もあってこの作品を書いているのだろう。
私見だが、日本人は(日本列島の住人は)海の向こうからやってくる文化や人々を受け入れそこから学んで成長してきた。稲作、漢字、各種宗教、唐の文化、宋の文化、・・・いわゆる南蛮文化、明治以降は勿論。これは日本列島の住人の長所で有得意技なのだ。だが、日本人は、時に不寛容・偏狭・排外的になる。江戸時代のキリシタン排撃、明治の廃仏毀釈(仏教文化を破壊した)、国家神道(極めて不寛容だった)などなど。「日本人は寛容」と手放しで言えないのはこれらによる。
キリスト教は、世界各地の風俗習慣や信仰などを採り入れて拡大してきた。時に純粋化運動が起き、例えばクロムウェルの時は「クリスマスは邪教の祭りだからやめよう」となった。でも英国国教会やローマカトリック教会はしたたかに粘り腰で各地の祭りの類いと共存し取り込んできた。クリスマス、バレンタインデー、ハローウィンだけではない。そもそも12月25日にイエスが生まれたとしていることからして地中海のミトラ教の影響だ。中南米にカトリックが受け入れられたのは、現地信仰(血の生贄を捧げる)と近しかったからかもしれないと誰かが言っていた。つまり、「一神教だから不寛容で排外的」とは言えず、実は「一神教は柔軟な構造を持っている」と言うべきだ。
良く存じあげないが、イスラム教もそうであるに違いない。湿潤なインドネシアの人の信仰と、アラビア半島の信仰と、中央アジアの信仰と、同じだろうか? あるいは、ムハンマドの頃と、現代と。『クルアーン』や『ハディス』の解釈や運用もイスラム法学者によって異なっているではないか。
すると、遠藤周作はキリスト教の何を見て「日本の風土では無理」と感じたのだろうか? よく存じあげないが、留学体験に多分ヒントがあり、もしかしたら、ローマン・カトリックのスコラ神学の一番難しいやつを遠藤はまじめに勉強しようとしたのではなかろうか? これは、現代の日本人に朱子学や仏教教学の最も高度で厳しいやつを勉強しろと言っても辟易するだけだろうのと同じように、厳しいことになるのは、当然ではあるまいか? だが、イエスは恐らく、大学の哲学教師のような難解な概念ではなく、わかりやすい言葉で人々に説き、人々の病気を癒し、最も差別されつらい思いをした人と共にいたに違いない。