James Setouchi

 

三島由紀夫『午後の曳航』新潮文庫

 

*問題作(若い人には薦めにくい) 

1        作者 三島由紀夫 

 大正14年(1925年)1月~昭和45年(1970年)11月。作家。

東京生まれ。本名は平岡公威(きみたけ)。父は官僚。幼時は病弱だった。学習院に学び文芸部に属し創作や評論を発表。学習院高等科を首席で卒業し天皇陛下から銀時計を拝受。東大法学部に学ぶ。昭和20年2月兵役に第二乙種合格するも入隊検査で軍医の誤診で即日帰郷。8月終戦。昭和22年東大法科卒。高等文官試験合格、大蔵省勤務。23年9月大蔵省を退職。執筆活動に専念するためだった。作品多数。『花盛りの森』『仮面の告白』『潮騒(しおさい)』『金閣寺』『美しい星』『近代能楽集』『豊饒(ほうじょう)の海』『葉隠入門』などなど。昭和45年没。ノーベル文学賞候補と噂されたことも。(新潮文庫巻末の年譜他を参照。)

 

2 『午後の曳航』

 昭和38年(1963年)講談社から出版。書き下ろし。当時38才。大変残虐なシーンや性的なシーンもあるので、若い人には薦めにくい。この点も問題作だが、暴力と性を用いながら作家・三島由紀夫が言いたかったことは何か? を考えると、さらに深い意味で問題作だとわかるだろう。

 

(1)   登場人物

:13才の少年。戦後のある時期の横浜市中区山手町の谷戸坂上の洋風の家に住む。父親はすでに亡くなっている。母親は商店を経営。登は学校や家庭を欺き少年たちと交遊。登は海の彼方の冒険に憧れ、海の冒険の夢を背負った外国航路の航海士・竜二に憧れる。

黒田房子:登の母。夫は故人。横浜の元町で高級舶来用品店レックスを経営。顧客はしゃれた金持ちや映画俳優たち。塚崎竜二と恋に落ちる。

塚崎竜二:外国航路の二等航海士。東京大空襲で家を焼かれ天涯孤独。海の向こうでの英雄的な冒険に夢を抱いてきたが、他方その夢はかなえられないとも感じている。房子と恋に落ち…

「首領」:登の所属する少年グループのリーダー。世界は空虚だと断じ、暴力と血を好む。家は金持ちで学校では「いい子」を演じている。家庭は両親がいつも留守でからっぽ。

依子:房子の店の客。女優。孤独で友人がいず(房子に軽蔑されているとも知らず)店を訪れては金を落とす。

 

(2)   あらすじ(ネタバレあり)

 夏、は自分の部屋から秘かに母親の部屋を覗き見る。そこでは母親(房子)と

航海士・竜二の不倫が行われていた。竜二はやがて外国へと旅立つ。登は海の彼方へと旅立つ竜二に、英雄の姿を夢見る。

 冬、竜二は帰国し、房子と結婚することにした。登には父親ができることになった。竜二はすでに海の彼方へと旅立つ英雄ではなく、平凡な日常を生きるただのつまらぬ男だ。登の属する少年団の「首領」は、竜二をもう一度英雄にする方法が一つだけあるという。それは恐るべき方法だった…(以下略)

 

(3)   考察

 13才の未熟な少年たちの妄想が生み出した悲劇。これは大人になれない少年たちの、大人の世界・父親を拒否する物語でもある。竜二は海の彼方への夢想を抱いてきたがそれを断念する形で房子との結婚に踏み切る。竜二は大人として日常生活への歩を進めようとした。に対してもものわかりのいいパパになろうと努める。「首領」は世界を空虚と断定する少年だ。ドストエフスキー『悪霊』のニコライ・スタヴローギンは能動的ニヒリストだ。「首領」はそれに似ている。かつ、「首領」は暴力と血を好むサディストだ。三島作品にはサディズムが出てくる。(注1)本作もその一つだ。(スタヴローギンもサディストだとの解釈がある。)

 

 少年たちの蛮行はもと米軍用地だった場所で行われる。米軍が一度用地にしていたが、今は米軍用地でなくなった場所。登の家も父親が建てたものだが一時米軍に接収されていた。房子の店レックスは西洋の品物を扱う。竜二の家は東京大空襲で焼かれた。米軍による空襲と占領からさほど遠くない時点に彼らの現実はある。欧米を相手とした市場経済に組み込まれて辛うじて富裕層である房子たち。少年たちも「いい家」の子らであり親の金で暮らしている。女優の依子も戦後の愚劣な大衆社会の代表だろう。作者・三島は「『アメリカ』という圧倒的な他者」の影響下にある彼らの姿をアイロニーを持って描き出したのだろうか。(田口卓臣「『島』と『海の彼方』の表象」(宇都宮大学国際学部研究論集2018第45号)に考察がある。)

 

 海の彼方で英雄的な死を遂げるはずだった竜二が帰還して、平凡な父親に収まる。これは特攻隊が死なないで帰国し戦後の日常生活を生き始めたことの暗喩ではないか。登は(「首領」は、また作者・三島は)そのことを否定的に捉える。だが、死んで英雄になるのではなく、生きて忍耐強く日常を支えてこそ真の英雄であるのかもしれない(坂口安吾『堕落論』を見よ)のに、その視点は本作にはなく、本作の少年たちは、日常を否認し、海の彼方での英雄的な死を美化する。三島はそういう傾向を持っていたから、あの死に方へと進んでいったのではなかろうか。この意味でもお薦めしにくい「問題作」なのであった。

 

(注1)三島には『サド侯爵夫人』という戯曲(昭和40年)もある。