James Setouchi

 

2024.7.10  ヘンリー・ミラー『北回帰線』大久保康雄・訳 新潮文庫(昭和52年版)

   Henry Miller“Tropic of Cancer”

 

1      ヘンリー・ミラー(1891~1980):

 1891年NY生まれ。幼少期をNYのブルックリンで過ごした。NY市立大学中退。南カルフォルニアやNYで様々な仕事に就く。1928年からヨーロッパ旅行。パリ及び郊外のクリシーに暮らす。ロスト・ジェネレーション(フィッツジェラルドやヘミングウェイら)の去った直後のパリだった。NYとパリを往還したが1940年NYに帰る。1944年以降カリフォルニアに住む。生涯で何度も結婚と離婚を繰り返した。最後の結婚相手はホキ・徳田という東京出身のピアニスト。代表作『北回帰線』『暗い春』『南回帰線』『セクサス』『プレクサス』『ネクサス』など。(集英社世界文学全集の河野一郎氏の解説・年譜などを参照した。以下の記述は新潮文庫解説の大久保康雄氏に多くを負うた。)

 

2 『北回帰線』1934年

 ヘンリー・ミラーを世に出した長編。大久保康雄の解説によれば、出版当時は「わいせつ」「小説ではない」とした否定的意見も多かったが、アナイス・ニン、ブレーズ・サンドラルス、ジョージ・オーウェル、エリオットらが評価した。一読して小説らしい構成がわかりにくいが、解説によると作者はあえて小説らしいプロットを破壊する方法を採っているようだ。

文学者や思想家の名前や作中の登場人物が断りなく多出する。作者は大変博識で多読家だ。演劇もかなり見ているようだ。ただし論理的に内容を紹介して批判するという論説や評論の書き方ではなく、奔出するイメージの一つとして固有名詞を使っている感がある。ジョイス『ユリシーズ』のモリ・ブルームやコンラッド『密林の奥』のクルツ、ゲーテ『ヘルマンとドロテア』など、世界文学の傑作とは言え、読んでいない読者には無理である。非常にブッキッシュであり、相当程度の知的水準を要求する作品なのだ。今の若い人なら歯が立たないだろう。 

 

 但しお高くとまったインテリ風の嫌みが全く感じられないのはどういうことか。主人公にして語り手「ぼく」(ヘンリー・ミラーらしき人物)の人柄(言動)によるものであり、パリの下町を(高級貴族の社交界ではなく)うろつき回る彼の、地位も名誉も財産も求めない貧しい生活、しかもアナーキーで八方破れの生活によるのだろうか。欧米の小説によく出てくる「名門のミラー家」といった記述は、おそらく皆無だ。名門、そんなことはどうでもいいのだ。今生きていることが全てなのだ。彼は人生観・世界観を模索し言う、「ぼくはすべて流れるものを愛する。・・ぼくはすべて流転するものを愛する。・・」(344頁)

 

 老子は「柔弱謙下」で有名だが、主人公「ぼく」のあり方は老子に近いかも知れない。パリの下町を行く老子。争いが嫌いな老子。囚われを脱し自由な老子。

 

 出版は1934年(ミラー43歳)であり、ミラーは当時フランス(主にパリ)にいた。フランスでの生活を描いた、自伝的作品だ。後年出版する『ネクサス』(1960年出版)がフランスに出発する前のNYでの生活を回顧して描いていることから、扱われている時代順に並べれば『ネクサス』(NY時代、パリに旅立つまで)→『北回帰線』(パリ時代)となる。もちろん1934年と1960年の間にミラーは当然変化しているだろうから、ことはそう簡単ではないが、これについては私の力量を越える。

 

 さて『北回帰線』だが、小説でも詩でも日記でもエッセイでもなくそれらを総合した何とも言えないものだ。自伝的文学ではある。フランス(主にパリ)での生活(注1)を描写しながら、そこでの出来事、感想、世界観を言わばだらだらと濃密に述べていく。従来の文学ジャンルや文学史による区分を拒否してみせたのだろうか。果たして本作は時間をかけて読むに価するか、それとも読むだけ時間の無駄か。プルーストの自己語りとどうか。今の若い人は投げ出すかも知れない。

 

 だがその圧倒的な言葉の量とイメージの奔流の中に浮かび上がるのは、何とも言えないパリという町。魅惑的で空虚。愛があるようで金がすべて。パリをうろつき回る人間たち。腹を空かせてさまよう「ぼく」。周囲の友人や女性たち。(注2)彼らはみな欠点だらけでどうしようもないが憎めない。どこかやさしさがある。ボヘミアン的な生活。説教や規範を拒みアナーキーに生きる。都会の自由。天下国家は論じない。金はない。「ぼく」は友人たちにたかっている。多少はアルバイトをするがすぐ失職する。なぜか友人が支えてくれる。「ぼく」に絶望はない。なぜか明るい。ゼロになった強さと言うべきか。あたかも巨大な生命の流れそのものの中にあって生きているようだ。やはり老子。

 

 性的な描写の多いことで有名だが、本作は言われるほどではない。(注3)むしろ世界や人間、宗教、芸術などについての思弁を展開する記述の方が多い。パンチやキックで世界と関わる人もある。機械で関わる人もある。「ぼく」は性で世界と関わることが多いのは事実だ。(純情な十代の青少年にはよくないかもしれない。)乱倫ではある。(注4)キリスト教道徳から見れば不道徳の極みだ。真似できるかと言えばできない。お勧めしない。

 

 売春婦が大勢出てくる。貧しくて今日の食べ物がない、と書いてある。1930年代のパリの貧富の差をよく読めば書き込んでいるとも言える。だがそれが主テーマではない。(売春をせざるをえない貧困女性の内面の苦しみまでは書き込んでいない。『罪と罰』のソーニャや『居酒屋』のジェルヴェーズのように焦点化してはいない。)主役は「ぼく」だ。売春婦もいるパリの下町を彷徨う「ぼく」たち。自分がゼロになり既成道徳も拒否する。では精神性が全くないかというと、そうでもない。一種の宗教性がある。虚偽の文明への批判はあるが世界そのものへの肯定はある。(これがアナキズムか。)「ぼく」は聞き上手で人から好かれる。それを人間として「誠実」と言うべきか。どこかで誰かがヘンリー・ミラーは「誠実」だと言っていたが・・・?(注5)

 

 生まれたNYを去りパリに来ている「ぼく」。あれほどの思いでNYを脱出してパリに来たはずだ。(『ネクサス』参照。)今の「ぼく」にとって故郷アメリカはどうなのか。前半では、パリに親しみ「それは彼のパリであった。」と言い、対して「ニューヨークは冷たく、ぎらぎらして、意地がわるい。」(98頁)とする。後半、「アメリカ」は「絵葉書のように、奥のほうに「しまいこんでおくのが、いちばんいいのだ。」(279~280頁)とある。末尾近く、友人のフィルモアをフランス女のジネットから逃がすためにアメリカに帰国させる。フィルモアは最初パリに夢中だったが、今や「おれたちはアメリカ人だ」「フランスには、もうへどが出そうだよ」と言う(406~407頁)。「ぼく」はアメリカに残してきた女房のことをふと思い出す。だが「ぼく」はアメリカに戻る決心はつかない。セーヌ川は過去を背負って静かに流れてゆく。(422~423頁)

 

 「ぼく」はこの後どうするのか。本文には書いていない。

 

 実際のヘンリー・ミラーは、1936年にパリを去り、ギリシア旅行を経てNYに戻り、さらにカリフォルニアに移住する。

 

注1:永井荷風『ふらんす物語』は1907~08年ころのパリ、ヘミングウェイ『移動祝祭日』は1920年代のパリ。ヘンリー・ミラー『北回帰線』はそれより少しあと、1930年代初頭のパリである。1929年のウォール街の株の大暴落から始まった世界恐慌の影響がフランスにも及んでいるはずだが、表面を読む限りそれは主テーマとしては出てこない。貧しい売春婦が多く登場することを想起すべきだろうが。

 →他にも、19世紀が舞台の、バルザック『ゴリオ爺さん』のパリ、スタンダール『赤と黒』のパリ、ユゴー『レ・ミゼラブル』のパリ、ゾラ『居酒屋』『ナナ』のパリ、なども併せ考えたい。(これらが全て男性作家によるもので、女性作家によるパリは抜け落ちている点も念のため言っておく。)

 

注2:ロシア人やユダヤ人が結構出てくる。多国籍なのだ。ロシア人は、ロシア革命で亡命してきた(と称する)人も出てくる。

 

注3:あとで『セクサス』を少し見たが性的描写が大量に出てきて辟易した。こちらの方は、「言われるほどではない」とは、かばえない。他のブログで恐縮だが、「はてなブログ」の中の「Rogi-073のDiary2.0」という方の「膨大な戯言でもあるように、ヘンリーミラー セクサス」というブログがわかりやすかった。『セクサス』についてはそちらに譲る。

 

注4:乱倫ゆえ性病と妊娠の問題があるはず。性病は出てくる。妊娠はどうか。あえて書いていないのか。書いていないが、中絶問題が黒々と横たわっていると見る人もある。

 

注5:「誠実」とは何か、は別に考察が必要。自己の欲望に忠実なだけでも「誠実」と言う場合がある。