James Setouchi
2024.7.24アメリカ文学
ノーマン・メイラー『アメリカの夢』 山西英一・訳
河出書房新社 河出世界文学大系99(1890年)
1 ノーマン・メイラー Norman Mailer 1923~2007
アメリカ合衆国ニュージャージー州で生まれる。ユダヤ系。NYのブルックリンで育つ。ハーバード大に入学。日米戦争に従軍、日本に駐屯。帰国後1947年『裸者と死者』完成。(たちまちベスト・セラーに。)パリ(ソルボンヌ大)留学。帰国し『バーバリの岸辺』『鹿の園』『ぼく自身のための広告』『淑女たちの死、その他の災厄』(詩集)、『大統領のための白書』、『アメリカの夢』、『マイアミとシカゴの包囲』、『死刑執行人の歌』等を書く。(河出書房の巻末の年譜他を参照した。)大江健三郎や村上春樹にも影響を与えた。
2 『アメリカの夢』 “An American dream”
1964年雑誌連載、1965年出版。当時アメリカはベトナム戦争の時期であり、ノーマン・メイラーはジョンソン大統領批判を繰り返していた。個人的には、富裕層の娘との結婚と刃傷沙汰を含む3度の離婚を経て、もと女優ベヴァリー・ベントリーと結婚したころ。(山西英一の解説を参照した。)この個人的な経歴が作中人物の造形に影響を落としているかもしれない。
(1) 登場人物(ややネタバレします)
「ぼく」:語り手。スティーヴン・ロジャック。第2次大戦でドイツ兵と奮戦し有名に。(但しその時月光の下で見た死にゆくドイツ兵の眼が忘れられない。)ジャック・ケネディ(JFKのことだと思うが本文ではジャックになっている)とも近く、若くして下院議員に。大統領にもなりえたかもしれない。今も政界への野心はある。その後大学教授、TV出演者などになる。アメリカの大富豪の娘・デボラと妻とするが、夫婦仲がこじれ、・・・
デボラ・コグリン・マンガラヴィディ・ケリー:父親はアイルランド出身で成り上がった大富豪。母親は高貴な家柄の出。両親の不仲で修道院で育つ。成人し上流社会で発言力を持つが、極めて攻撃的な性格。「ぼく」と結婚するが・・・
バーネイ・オズワルド・ケリー:デボラの父親。アイルランド出身で大富豪に成り上がった。政財官界だけでなく暗黒街にも支配力を持つ。
レオノーラ:デボラの母親。父親はブルボン家とハプスブルク家の血を引くシシリー系の高級貴族。母親は牧師の家柄。ケリーと結婚しデボラを生むが・・・
ルータ:デボラのメイド。ドイツ系。
チェリー:バーの歌手。南部出身だが悲惨な生育歴を持つ。「ぼく」と恋に落ちて・・・
シャゴ・マーチン:チェリーの過去の恋人。黒人の歌手。
トニー:バーの主人。チェリーの前の恋人。
アイク・ロミオ・ロマロゾー:もとボクサー。
アンクル・ガヌーチ:暗黒街のボス。
ロバーツ:刑事。
レズニッキ:主任刑事。
オーブリエン:刑事。
デアドリ:デボラの娘。「ぼく」にとっては義理の娘。「ぼく」とは仲が良い。
ベティナ:デボラの友人。デボラは二重スパイだったと「ぼく」に告げる。
ベシー:高齢女性。大富豪で、かつてケリーの恋人だった。
(2) 感想(かなりネタバレします)
結構大白い。舞台はNY。時代は戦後20年ほど経って。暴力とセックスもあるから通俗小説に分類すべきか。だが面白いのは私にはそこではなかった。暴力もセックスも辟易する。作者は意図的に描き込んでいると思うが、実は暴力とセックスを使わなくても十分面白い作品になったのでは。
なお、河出世界文学大系の『月報』の佐伯彰一は、メイラーは「悪」を描こうとしたのだ、と言うのだが・・?
冒頭第1章で「ぼく」がいきなり妻デボラを殺害してしまう。第2章以降、「ぼく」は妻は自殺だと偽装工作をする。刑事が来る。嘘が見抜かれそうになる。(刑事ものドラマだと刑事の側から描くが、本作は犯人の側から描く。そう、ドストエフスキー『罪と罰』と同じ。)メイド、刑事たち、あやしげなマフィアのボス、夜の街の美しいチェリー、チェリーのもと恋人などが交錯し、NYの大変な夜を「ぼく」は過ごす。まずはこの急展開が面白い。「ぼく」はチェリーの過去を聞く。「ぼく」は妻デボラの父親ケリー(超富裕層で、政財界だけでなく暗黒街にもネットワークを持つ男)に会いに行き彼と対決しなければならない。その中でデボラやケリーの過去も語られる。それぞれの人生の苦しみが明かされる。ここが面白い。
「ぼく」、チェリー、ケリー、デボラについては過去の経歴と人物像がかなり詳しく描き出される。
デボラとチェリー:デボラは超富裕層の女でチェリーは底辺を生きる女。デボラは悪意に満ち「ぼく」だけでなく自分の気に入らない相手を攻撃し破滅させるが、チェリーは南部の上質なキリスト教徒の原質を持ち「ぼく」に愛情を示す。だが富裕層で幸福に見えるデボラもまた生育歴に苦しみがあり父親との葛藤があった。デボラはその葛藤から国際スパイ(ロシアの大使館員やイギリスの情報機関員)と関係していた。だからデボラの死は上層部によって自殺と処理されたのだ。チェリーはもちろん数多の苦しみを経て今ここにいる。マフィアとも近い。チェリーは警察のスパイでもあった。
「ぼく」とケリー:全く違う世界に属するかに見え、実は相似形だ。「ぼく」も富豪の娘ケリーとの結婚により政界で上昇する可能性を持ったはずだった。大富豪ケリーも実はアイルランド出身の貧しい移民から出発して、血筋のいい妻とその父親の力もあって、大富豪にのしあがった。世俗的な意味での「アメリカンドリーム」に「ぼく」は失敗しケリーは成功した。「ぼく」はケリーの部屋に並ぶ豪華な調度品に目を見はる。だが、「ぼく」もケリーも決して幸福ではない。「アメリカンドリーム」とは一体何だろうか? 「ぼく」はアメリカを去り中米へ。
「ぼく」と刑事ロバーツ:「ぼく」は冒頭で殺人を犯し「あれは妻が自殺したのだ」と嘘をつき何とか逃れようとする。「ぼく」は内面に苦しみがある。刑事ロバーツは「ぼく」を追い詰めていくが(他の刑事と違い)「ぼく」の説明にいったんは聞く耳を持つ。彼はハード・ボイルドでタフな刑事だ。だがそのロバーツも「上」からの命令で「ぼく」を釈放することになる。さらにロバーツ個人も女性との関係があり人間としての苦悩があったことが示される。(アイルランド出身であることも。)誰もが苦しみを抱えているのだ。
「ぼく」はアメリカの物質文明のさなかにありつつ、ブードゥー教や東洋思想にも関心がある。『弓道における禅』(ヘリゲルの『弓と禅』のことか?)の、「自分」がしたのではなく「それ」がしたのだ、という記述を理解できる。「ぼく」は言わば非物質的でスピリチュアルな領域に足を踏み入れている。「ぼく」は言語ではなく心の中または精神の領域で相手とやりとりする。「ぼく」はチェリーとキスをした瞬間チェリーの背負ってきた過去を感じ取る。また飲み屋で相手と殴り合う前に心の中または精神の領域で殴り合い傷つけ合う。この精神的(サイキック)な力が繰り返し書き込んである。これは一種のテレパシーなのか、「ぼく」の妄想なのか。この点も面白かった。
「ぼく」は第2次大戦で殺害した、月光の下のドイツ兵の眼から逃れられない。「月」を見ると死の世界に誘い込まれるような気がする。「あちらの世界」の方が幸福になれるのではないか? という誘惑が絶えず訪れる。だが辛うじて「ぼく」は「こちらの世界」に踏みとどまり、嘘を重ねながら生きていこうとする。
「ぼく」と女性たちとの関係:「ぼく」は容易にメイドのルータや初対面のチェリーと肉体関係を持つ。男性目線からの描写だとフェミニズムの立場から批判されているのは有名だ(ケイト・ミレット『性の政治学』1970年)がここでは論及しない。素朴な感想としては、そう都合良く男女が出会うはずがない、「ぼく」はよほど2枚目で女たらし(光源氏!?)なのか、女性もよほど事情がなければたやすくは男とは関係しないはず、といったところだ。本文を最後まで読むと、メイドのルータも大富豪ケリーの手の中にあり、歌手のチェリーも暗黒街にからめとられつつ実は警察の協力者だったとわかる。女たちも(そこに本人たちの感情、自分の人生を生きようとする意思はありつつも)支配者のネットワークに従属し何らかの意図を持って「ぼく」に接近していたのかも知れない、と匂わせる作りになっている。それでも人は自由を希求する。
(補足)
なお、言わずもがなだが、フェミニズムは値打ちがあるので皆がもっと勉強した方がいい。現代は男女平等でないのでもっと改善すべきだ。これは言うまでもない。(例えば、中小企業やトヨタや大銀行の、また田舎の村役場から東京の中央省庁の、係長・課長から重役・頭取に至るまで、男女半々になる日が来るまでは、男女平等が実現しているとは言えない。北欧に学ぶことはもっともっとありそうだ。)
但し、現今の社会問題や人間的な苦しみの全てを男性上位社会のせいだ、とは言えない。本作ではデボラは悪意に満ちた人間だ。それはデボラの生育歴と父親へのコンプレックスに由来すると本作では明らかにされるのだが、だからデボラはイノセントであって他者を攻撃してもいい、とはならない。デボラは大富豪の娘で実際に権力を持つ。恵まれた優れた知力を他を攻撃することに使う。現代社会でも、能力の高い女性で他の女性を攻撃し支配者になりたがる人がいるのは事実だ。女性Aは高い知力で、女性B(Aの先輩)を攻撃し排除する。それを見ていた女性たちは女性AにへいこらしAに「あいさつ」をする。心中では「いやだな」と思いつつ。つまり女性Aはその女性社会に支配者として君臨したのだ。(こうした例は勿論男性社会の中でもある。遺伝子的には5%位の人がリーダーになりたがる性質を持っているそうだ。いいリーダーならいいがヒトラーはごめんだ。)女性のいじめも、男性上位社会であることがどこかで関係してはいるだろうが、そのせいだけに還元できない。してはいけないことはしてはいけないのだ。当たり前だ。(アメリカ優位社会だからといって日本人上司が部下にパワハラをしてもいいことにならないのと同じだ。植松努はどこかでいじめの連鎖を止めようよといっている。その通りだ。)女子中学生の過酷ないじめ(報道で見る)、マダムたちのマンションや公園での上下関係(ドラマでよく見るやつ)、会社内のお局(つぼね)女子の新入社員いじめ(『大奥』とか)、スポーツのチーム内のいじめ(実は結構ある)、そのうち高齢者施設でも高齢女性同士の間で同じことが起きるのか? 「強い女」が「弱い女」を支配しその上に君臨している。これら全てを「男性上位社会を改めさえすれば解決する」とは言えない。男も女もつまらない争いに精を出しているものだ。煩悩だ。修羅(しゅら)の心だ。外道で畜生のやることだ。何と言えばいいのだろう。仏教のお経でも読んでみたらどうですか。宮沢賢治が泣きますよ。キリストもそんなことをせよとは教えていない。やはり成果主義・競争主義のプレッシャーがいけないのかな。ともかく、今は「強い女」が「弱い女」だけでなく「弱い男」を虐げる時代が来ている。(昔からそうだったのかもしれないが、今は特にグローバル市場経済のせいで「弱肉強食」の論理が社会の隅々にまで貫徹してきている感じがする。)思い出せば私の子ども時代、喧嘩の強い女子が男子の急所に蹴りを入れて男子がうめき声を上げてうずくまっていた。今は子どもの喧嘩ではない大人の権力闘争・生存競争でそれが起きている。(言っておくが知事も首相も大統領も女性がなっていいと(当然)私は考えている。弱い者いじめをしない、しかるべき政策と人間性を有した方なら。それがなければ男性リーダーも勿論失格。真のリーダーとは何であろうか? )
この『アメリカの夢』は、大富豪の娘デボラが「ぼく」を攻撃し追い詰め破壊しかけるところから始まる。(「ぼく」はそれから逃れようとして思わずデボラを殺害してしまう。もちろんそれは犯罪だが。)「強い女」(勿論その背後には「もっと強い男」=デボラの父親の存在がある)が「弱い男」を攻撃し抑圧し支配する、現代の問題を先取りしているのかもしれない。恐ろしい話だ。
(さらに補足)(他で言及する機会がないかも知れないのでここで少し触れておく)
「男流文学」について:「女流文学」という言葉の反対語として「男流文学」という言葉を使ってみる。男上位社会でいわゆる「女性なのに」作家になった人を「女流文学者」と言うそうだが、まさに男目線のおかしな言葉だ。そこであえて「男流文学」という言葉を使ってみるのだ。
すると、男上位社会に乗っかっている男性作家たちは、まずすべて「男流文学者」でしかない、と言うことが出来る。漱石・鴎外もそうだし、ノーマン・メイラーもそうだ。
但し、その中で、「自分が男流文学者でしかない」という自覚を持ちつつ、男性上位社会における女性の苦しみに気付きどこまで書き込んでいるか、それとも、女性を男性目線の鑑賞物としてしか見ていないか、で、多少以上の差がある。
漱石は妻の鏡子のつらさを(よい夫ではなかったが)自覚しており、作中でも『それから』の三千代や『こころ』の静子や『明暗』のお延において、女性の苦しみに触れかかっている。鴎外は(家父長制・長州陸軍軍閥のただ中にいたにもかかわらず(?)「よい夫・父親」であっったと言われているが)フェミニズム運動に理解を示し、作中でも『舞姫』のエリスに同情を誘うように描き、『安井夫人』では女性が主人公(封建社会の中とは言え)、『じいさんばあさん』も「るん」が頑張って生きていて、一考の価値がある(これはある人が教えてくれて勉強になった)。
対して男目線の「都合のいい女」を描いて済ませる小説もあちこちにある。フェミニズム批評はそれらを暴き立ててくれるので大変面白く勉強になる。ノーマン・メイラーはどうであろうか。
では、現代の、男目線で女子がアイドル化してステージで踊って金を稼ぐのはどうか。逆に若い男子がアイドルとなって女性に気に入られるようなつるつるの肌になりステージで踊って金を稼ぐのはどうか。いずれも自分を商品化しているわけだが・・・