James Setouchi
夏目漱石『漱石文明論集』(三好行雄編) 岩波文庫
内容
Ⅰ 『現代日本の開化』『中味と形式』『文芸と道徳』『私の個人主義』『模倣と独立』『無題』『教育と文芸』『東洋美術図譜』『イズムの功過』『博士問題とマードック先生と余』『マードック先生の「日本歴史」』『博士問題の成行』『文芸委員は何をするか』『学者と名誉』『硝子戸(ガラスど)の中』
Ⅱ 『倫敦消息(ロンドンしょうそく)』『愚見数則』『人生』
Ⅲ 日記・断片・書簡から
解説
*圧倒的に優位な西洋文明を相手に漱石は「自己本位」の立場を同時代の誰にもまして痛切に生きた。その苦闘の跡(あと)を示す『現代日本の開化』『私の個人主義』などの講演記録を中心に、かれの肉声ともいうべき日記・断片・書簡を抄録(しょうろく)する。(カバーの内容紹介から)
*夏目漱石には文明批評家の側面がある。いや、彼は明治~大正の激変の時代に身を横たえ自らの身心の痛みをもって感受し考えた、文明批評家なのである。
例えば、『坊っちゃん』では坊っちゃんは愚劣な中学の連中に怒っている(漱石は東京や日本の人々に怒っている、と読める)。『坊っちゃん』から『虞美人草(ぐびじんそう)』までは一種の勧善懲悪(かんぜんちょうあく)小説とも言える。『虞美人草』は漱石が帝国大学の先生をやめ朝日新聞に入社し(つまり職業作家となって)意気込んで最初に書いた作品で、注目すべきだ。
『三四郎』でも広田先生は「(日本は)亡(ほろ)びる」と予言し、『それから』でも代助は東京の発展を「敗亡の発展」と名付ける。高校生が学校で学習する『こころ』も単なる三角関係の心理ドラマではない。「自由と独立と己れに満ちた現代に生まれた我々は、その代償として」「淋しみ」を味わわなければならない、という強烈な文明批評がある。
小説の中でも繰り返される文明批評は、講演・評論などでも繰り返される。この本はそれらを集めたもので、漱石の小説とは違う魅力がある。現代の我々にも、文明社会を見る目の基礎を与えてくれる。
惜しむらくは『文芸の哲学的基礎』ほかいくつかの評論がない。『文芸の哲学的基礎』は先の『虞美人草』執筆の頃に書いたもので、『虞美人草』とセットで理解したいものである。
『現代日本の開化』は、西洋の開化は「内発的」であるのに対し日本の開化は「外発的」であるとする有名な講演。この問いは現代の我々においてなお問いうる問いであろう。
『私の個人主義』は大正3年の講演でこれは『こころ』発表の年。『こころ』とセットで理解すべきものだ。有名な「自己本位」という言葉が登場するが、これを単に「非西洋」とのみとるべきか、あるいは西洋近代の「個人主義」を移入したものと見るか。いろいろ議論できるが、「自己」は日本の思想史の古い土壌にいくらでもあるのであって、漱石はそこから出発しつつ思想的苦闘のはてに西洋近代の「個人主義」に匹敵するものをつかんだとは言えまいか。他の日本人と群れて多数の尻馬に乗って物を言うのは漱石の嫌うところであるから、「自己本位」=「非西洋」ですませてはならない。自分の頭で考えろ、と言っているのだろう。
では現代の私たちにおいて「個人主義」あるいは「個人の尊重」とは何か。たとえばこのような考察を行っていくための最初の手がかりになるのがこの『漱石文明論集』だと言ってもよい。
なお、『愚見数則』は松山中学の教師時代に書いたもの。こんな先生がいたらどうか、という眼で読んでも面白い。