James Setouchi

 

『アトミック・ボックス』池澤夏樹 角川文庫(2012~13年毎日新聞連載)

 

1 作者 池澤夏樹(1945~)北海道生まれ。埼玉大学理工学部物理学科に学ぶが中退。小説『スティル・ライフ』で芥川賞。他に『バビロンに行きて歌え』『南の島のティオ』『マシアス・ギリの失脚』『花を運ぶ妹』『すばらしい新世界』『光の指で触れよ』『静かな大地』『キップをなくして』『星に降る雪』『カデナ』など。評論・紀行文に『楽しい終末』『ハワイイ紀行』『言葉の流星群』『異国の客』『セーヌの川辺』『パレオマニア 大英博物館からの13の旅』など。著書多数。実父は福永武彦(作家)。(角川文庫の著者紹介他から)

 

2 紹介文 

 社会派エンターテインメント小説。主題は戦後の核兵器製造プロジェクト

 

 宮本耕三は瀬戸内海のある小島の漁師だが、知られざる過去があった。その母が妊娠中にヒロシマで被爆し、耕三は胎児の時に胎内被曝していた。そのことを知らないまま、優秀だった耕三は東京の大学を出てエンジニアになる。気が付くと極秘の核兵器製造プロジェクトに関わっていた。背後に大物政治家がうごめく。しかしアメリカの圧力でそのプロジェクトは潰えた。耕三は会社を辞め、秘密を抱えたまま瀬戸内海に隠棲し漁師となる。歳月がたち、2011年3月、東日本大震災で津波が福島原発を破壊、放射能が流出した。耕三は自らの生き方を深く悔いる。やがて耕三は癌で死亡し、彼が抱えていた秘密は、娘の宮本美汐(大学の社会学講師)に引き継がれる。秘密を闇に葬ろうとする勢力は警察力を動員して美汐を追い詰める。逃亡する美汐。美汐は何をしようとしているのか・・・? ここから先はご自分でお読みください。

 

3 補足説明 

(1)舞台:瀬戸内海の小島が多く出てくる。潮の香りが満載だ。瀬戸内国際芸術祭も出てくる。出てくる街は、広島、尾道、岡山、高松、徳島、熊本そして東京。

 

(2)乗り物:乗り物も魅力だ。漁師の小さな船、フェリー、山陽新幹線、マリンライナー、自動車。さまざまな乗り物が出てくる。池澤夏樹は乗り物好きなのだろう。

 

(3)漁師の生き方:宮本耕三は東京で一流企業に勤めていたが、中途退社して瀬戸内海の漁師になる。先輩の老人に弟子入りして漁を一から学ぶ。潮と風を体で感じる。彼らは無口になる。池澤夏樹は宮沢賢治が好きで、自然の中で自然と交感して生きる生き方を他の作品でも描いている。

 

(4)高度の物理学:中性子回折現象、分裂核断面積、トンネル効果、自発核分裂、ナノ秒の速度、衝撃波などなど、物理学の用語が頻出する。池澤夏樹は理系(物理学科!)である。

 

(5)核兵器開発:アメリカのマンハッタン計画ではウラン型(ヒロシマ)とプルトニウム型(ナガサキ)が作られた。日本でも理化学研究所の仁科芳雄が着手していた。ソ連はアメリカを追って核兵器を開発。主人公は国産の核兵器の開発に従事する。(やがて世界は核兵器だらけになった。冷戦下キューバ危機当時の沖縄にも大量の核兵器があったと言う。)

 

(6)福島原発:2011年3月11日の大地震と津波で破壊され、周囲は放射能で汚染された。この小説はその直後にその問題意識で書かれた。主人公・宮本耕三は、よくわからないまま国産核兵器の開発に参加する。が、福島原発の事故を機に、今までの自分の生き方を強く悔い、自分が秘密にしてきた核兵器製造の仕事との関わりについて、初めて娘の美汐に知らせ、公表すべきか否かの判断を委ねようとする。この小説では科学技術者のあり方をも問うている。核兵器だけではなく原発についてもこの小説では問われる。「原爆は保管するだけだが原発は稼働しているからよけいに危険だ」というブラックな会話もある。

 

(7)国際政治と安全保障:東西冷戦下、日本はアメリカの核の傘の下にある。だが、万一のことがあったら、と考え、核兵器を保有しようとする大物政治家がいた。スパイも暗躍する。公安警察も出てくる。だが、真の安全と平和はどのような形で実現するのが妥当なのか? この小説ではこのことも問われている。

 

(8)政治家の発想と人間一人一人の倫理観:政治家は国際政治をパワーゲームと国益の総量でとらえがちだ。だがそれは国家の論理だ。一人一人の人間の倫理的な生き方はそれとは違う。人間の尊厳をもった生き方とはいかなるものか? がこの小説では問われている。