James Setouchi

 

『村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する』

   小森陽一著 平凡社新書321  (2006年5月)

 

*著者:小森陽一

 1953年東京生まれ。北海道大学文学部卒業。同大学院文学研究科博士課程修了。東京大学大学院総合文化研究科教授。編著書に『漱石を読みなおす』『<ゆらぎ>の日本文学』『小森陽一ニホン語に出会う』『日本語の近代』『歴史認識と小説―大江健三郎論』『天皇の玉音(ぎょくいん)放送』『岩波講座 文学』(共著)『昭和文学史』(共編)など。(カバーの著者紹介から。)

 

*日本、アメリカ、中国等で大ヒットした『海辺のカフカ』。カフカ少年とナカタさんのパラレルな物語に<癒し>や<.救い>を感じた人も少なくなかった。けれども、本当にそういった内容なのだろうか? 丁寧(ていねい)なテクスト分析(ぶんせき)によって、隠れた構造が浮かび上がる。暴力が前面に現れつつある「九・一一」後の世界に記憶と言葉の大切さを訴える、渾身(こんしん)の村上春樹論。(カバーから)

 

*内容:

はじめに

第一章 『海辺のカフカ』と『オイディプス王』

第二章 甲村図書館と書物の迷宮

第三章 カフカ少年はなぜ夏目漱石を読むのか

第四章 ナカタさんと戦争の記憶

第五章 『海辺のカフカ』と戦後日本社会

 

『海辺のカフカ』

 村上春樹の書いた小説。2002年9月出版。東京の田村カフカ少年(15歳)が家出をし四国・高松の図書館にいる佐伯さんたちに出会う話と、戦時中に集団疎開(そかい)の経験のあるナカタさんジョニー・ウォーカーという不気味な人物を殺害し星野青年とやはり四国へ向かい佐伯さんに出会う話とが、並行(へいこう)して語られる。

 そこで佐伯さんの過去が語られる。ナカタさんと星野君が「入口の石」を開けて、閉じる。カフカ少年は四国の森の中で或(あ)る経験をし、東京に戻る。

 

 この小説はアメリカはじめ世界の各国で翻訳され読まれている。2010年4月4日付朝日新聞によれば識者151人のアンケート2000~2009年の十年間の「ゼロ年代の50冊」で2位に選ばれてもいる。村上春樹自身はカフカ賞やエルサレム賞などを受賞しており、ノーベル賞候補と言われたこともある。

 

コメント

 『海辺のカフカ』は「面白い」と言う人と、「面白いと人から薦められて読んだけど、よく分からなかった」と言う人とがいる。その通りだろうと思う。面白くはあるが、何だかよくわからないとも言える。そこで、小森陽一(漱石研究者で、東大教授)が村上春樹論を書いているので、どう書いているかなと思って、読んでみた。

 小森陽一は、『海辺のカフカ』については、激しい調子で否定している。

 

・『海辺のカフカ』が受け入れられた国々には、二○○一年「九・一一」以後、ある共通した社会的な精神的病理が広がっており、それに対する<救い><救済><癒し>をもたらす商品として『海辺のカフカ』が消費されており、そのことを<善きこと>として受け入れるわけにはいかない、というのが本書を貫く立場です。(p.14)

・文芸評論家としての基本的な役割の一つは、『海辺のカフカ』という小説が、どのような構造を持ち、その構造が、どのように読者の欲望に働きかけているのか、その欲望の実現が何をもたらすのかを明らかにすることにあると思います。(p.15)

 

 こうして、小森陽一は、『オイディプス王』(ソフォクレス)『千夜一夜物語』『流刑地にて』(カフカ)『虞美人草(ぐびじんそう)』・『坑夫(こうふ)』(漱石)『レイテ戦記』(大岡昇平)などなどを援用(えんよう)しながら、『海辺のカフカ』の持つあるしかけについて明らかにしていく。その結論は・・・ここで書くと楽しみがないので、各自で読んでみられたい。小森氏の結論に対する賛否(さんぴ)も諸氏の判断におまかせしよう。さすが小森陽一で、なるほど、こんな見方があったのか、と勉強になる一冊である。

 

*文学を愛好する人は(そうでない人も)挑戦してみられるといいと思います。