James Setouchi
村上春樹『一人称単数』文春文庫2023年2月
1 『一人称単数』:短編集。初出は『文學界』(2018年7月~2020年2月)。単行本は文藝春秋で2020年7月に出た。以下、極力ネタバレを避ける。
(1)『石のまくらに』:「僕」の回想。二十歳前の「僕」は、バイト先で年上の女性と知り合う。彼女は独特の短歌を作る人だった。例えば「石のまくら/に耳をあてて/聞こえるは(改行)流される血の/音のなさ、なさ」彼女とは一度遭遇しただけで別れてしまった。彼女の残した言葉の断片は「僕」の心に残っている。「たち切るも/たち切られるも/石のまくら/(改行)うなじつければ/ほら、塵となる」
「漱石沈流」とは故事成語で言う負け惜しみが強く自分の誤りを正さない、偏屈で片意地な人のことだが、「石に枕する」とは世俗を離れ風流な人生を送る意味になるはずだ。が、ここではそうではなく、人は死んで石の枕に首を乗せる、と本文にある。福井県の民話に「石の枕」という恐ろしい話があるらしい。村上春樹がどこまで意図しているか知らないが、何かしら彼女の死を予想させる話だ。それでも、言葉は残り、彼女の記憶も残る。
(2)『クリーム』:「僕」の回想。十八歳の時の奇妙な出来事だ。・・謎の老人は語る。「中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円」について考えよ、と。大人になった「僕」は、その意味が理解できたような、またできていないような気がする。
(3)『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』:「僕」の回想。大学生の頃、チャーリー・パーカー(ジャズの名手)が、1955年に亡くなったはずだが、実は生きていて1963年にボサノヴァのレコードを出した、という嘘の記事を書いて、文芸誌に掲載された、という話。後日談があって・・「僕」(ほぼ村上春樹自身か?)のジャズへの愛が込められた短編で、ジャズ好きには嬉しいだろう。
(4)『ウィズ・ザ・ビートルズ』:「僕」(村上春樹、となっている)の回想。ビートルズ全盛期、1964年に神戸の高校で見かけた美しい少女。サヨコというガールフレンド。担任教師の死。サヨコのお兄さんとの奇妙な邂逅。本冊の中では最も長い、中編とも言える作品だが、展開がうまく、読ませる。サヨコについてはつらい。私はこのお兄さんなる人物の造形が面白いと思った。お兄さんは記憶がなくなる珍しい病だ。
(5)『ヤクルト・スワローズ詩集』:「僕」の回想。神戸に育ち父親に連れられて阪神甲子園球場に通ったが、東京に来てからは神宮の近くに住み、ヤクルトのファンで通してきた。当時ヤクルトは弱かった。「人生は勝つことより、負けることの方が数多い」「人生の本当の知恵は『どのように相手に勝つか』よりはむしろ、『どのようにうまく負けるか』というところから育っていく。」
(6)『謝肉祭』:「僕」の回想。一人の女性と意気投合し、シューマンについて語り合う。だが、人間には仮面と素顔がある。それは・・
(7)『品川猿の告白』:「僕」は五年前、北関東の温泉で人語を語る老猿と出会う。猿は人間の女性を好きになったとき、その名前をこっそり盗むのだという。・・村上春樹の『東京奇譚集』にも別の『品川猿』という短編がある。
(8)『一人称単数』:「私」(ここでは「僕」でなく「私」)は普段着ないスーツを着てバーで小説を読んでいた。すると、隣に座った女が「私」を非難し始める。「私」には身に覚えがないのだが・・・!?
2 コメント
短編集で、ホラーがかっている。話の展開はうまく、つい引き込まれる。全体に60年代の回想が多く、その年代の人にはより魅力的であるにちがいない。不思議な村上ワールドを味わえばいいのかもしれないが、解釈してみたくなる作品群でもある。
(以下ややネタバレ)
品川猿は「僕」の無意識の現われで、複数の好きになった女性を忘れられない。『謝肉祭』のF*という女性は仮面の下に素顔があった。「僕」にもそれはあるかも知れない。サヨコのお兄さんは記憶喪失。「僕」も自分がしたことを忘れているかもしれない。『石のまくらに』や『クリーム』で接近遭遇して別れた女性たちに対して、「僕」は何か決定的に罪深いことをしてしまっているのかもしれない。
それらをつなげて最後の『一人称単数』を読むと、「私」(ここは「僕」ではない)は表面上は紳士として振る舞っていても、本人は忘れていても、彼女に非難されるだけの理由があるのかもしれない。もしくは、この「私」はカズオ・イシグロばりの「信頼できない語り手」で、あらかじめ読者を欺いているのか? バーから出て見る街の情景が恐ろしい。
アマゾンのコメントを読むと、「若い頃の村上春樹が戻ってきた」「70歳になっても新しい挑戦をしている村上は素晴らしい」「年老いた。かつての切れ味はない」など評価は分かれていた。
3 村上春樹:1949(昭和24)年京都府生まれ。早稲田(わせだ)大学文学部卒。1979年『風の歌を聴(き)け』でデビュー。群像新人文学賞受賞。『羊をめぐる冒険』(野間文芸新人賞)、『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』(谷崎潤一郎賞)、『ねじまき鳥クロニクル』(読売文学賞)、『ノルウェイの森』、『アンダーグラウンド』、『海辺のカフカ』、『1Q84』、『騎士団長殺し』など。翻訳(ほんやく)も『レイモンド・カーヴァー全集』、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(サリンジャー)、『グレート・ギャツビー』(フィッツジェラルド)、『ロング・グッドバイ』(チャンドラー)、『ティファニーで朝食を』(カポーティ)など多数。フランツ・カフカ賞(2006年)、エルサレム賞受賞(2009年)、カタルーニャ国際賞(2011年)。(新潮社のHPの著者一覧他を参考にした。)