James Setouchi
村上春樹『雨天炎天―ギリシア・トルコ辺境紀行』新潮文庫(単行本は平成2年=1990年)
村上春樹(1949~)は、カメラマンや編集者とギリシアのアトスおよびトルコを旅行した。1988年9月以降の旅と思われる。村上は40歳目前か。1985年に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を書き谷崎賞を受賞、すでに有名になっていたが、1986年に日本を脱出しヨーロッパに移住、1987年の『ノルウェイの森』がベストセラーとなった、そのあとだ。出版社の要請でこの旅を実行したと思われる。
(ギリシア・アトス篇)
アトスはギリシア北部の小さな半島にある、ギリシア正教の聖地。本書によれば二十の修道院があり、約二千人の僧が暮らす(執筆当時)。最盛期には四十の修道院があり、二万人の僧がいた。修行僧以外に、雑役で働く人、巡礼客、観光客がいる。但し男性だけ。動物もオスのみ。アトス山は標高2000メートル、気象が変わりやすく雨も降る。ギリシアには珍しく緑が多い。村上はいくつかの修道院や修道院付属の出張所(スキテなど)を訪れ、そこに宿泊し、甘いギリシア・コーヒーと、ルクミ(甘いゼリー菓子)と、ウゾー(焼酎のようなもの)を頂き、宿泊する。道は険しく、登り下りが激しい。客に対して親切な僧もいれば無愛想な僧もいる。修道院で見た聖人の受難の絵は大変恐ろしい。僧たちは極めて真剣で、見知らぬ村上に「どこから来たか」「宗教は何か」「日本にも正教の教会はあるか」と尋ね、「ある」と答えれば満足し(お茶の水に日本正教会のニコライ堂がある。厳密にはロシア正教由来)、さらに真顔で「心を入れ替えて正教に改宗してまたここに戻ってきなさい」と言う(92、98頁)。村上は記す、「ギリシア正教・・にはどことなくセオリーを越えた東方的な凄みが感じられる・・」「ヨーロッパと小アジアが歴史の根本で折れ合ったような、根源的なダイナミズム。・・神秘的な土俗的な肉体性を備えているように感じられる。・・キリストという謎に満ちた人間の小アジア的不気味さをもっともダイレクトに受け継いでいるのがギリシア正教ではないか・・」(57頁)また村上は記す、この聖地を離れる日、現世的な酒と食事と音楽を楽しんだ。これが「リアル・アールド」だ(97頁)。だが、「何日かたつとアトスが不思議に恋しくなった・・(アトスのことが)ものすごくリアルに目の前に浮かんでくる・・そこでは人々は貧しいなりに、静かで濃密な確信を持って生きていた。・・宗教云々というよりは、人の生き方の確信の問題なんだろうと思う。・・世界中探してもアトスくらい濃密な確信に満ちた地はちょっと他にないのではないかという気がする。彼らにとっては、それは疑いのない確信に満ちたリアル・ワールドなのだ。」「さて、本当はどっちがリアル・ワールドなんだろう?」(98~99頁)
→(コメント)現代の都市文明(消費生活。しかも日本は当時バブル)を享受しつつ飽き足りない者にとっての、強烈なカウンターがアトスにはある、ということだろう。村上の後のオウム真理教への関心につながる問題意識が見える。アマゾンの書評に、村上はギリシアの近現代史や僧たちの内面に一切触れない、ノーベル賞候補と言われながら情けない、との否定的評価があった。のちに村上はオウム真理教関連では被害者や信者の内面に肉薄することになる。
(トルコ篇)
トルコでは、有名な観光名所(イスタンブールやカッパドキア)ではなく、外周部を車で21日かけて一周。村上によれば、①トラキア地方は北ギリシアに近く、東欧的。②イスタンブールは除外。③黒海沿岸は、静かで美しい、田舎人々は親切。④ソ連・イラン・イラク国境あたり、東部アナトリアは、中央アジア的。猫を見ようとして絨毯を買う羽目に。⑤シリア国境地帯から地中海にかけての中部アナトリアは、アラブ的色彩が強い。クルド族の町では不穏なものを感じる。⑥エーゲ海沿岸は、明るく、高級リゾート地があり、物価は高い。村上は③④⑤について詳述する。
→(コメント)
これは1988年ころの旅と思われる。その後湾岸戦争(アメリカは父ブッシュ)、イラク戦争(アメリカは子ブッシュ)、シリア内戦などを経てISが猛威を振るい、シリア難民が大量にトルコからギリシアへと移動。日本人の後藤健二さんと湯川遥菜さんがISに捕らえられ殺害された。ISに志願する者はトルコ国境からシリア側に消えたという。(イラクのクルド族はフセイン政権時代は弾圧されていたが、ISに対してはクルド族のペシュメルガという軍隊が米軍の支援を受けてISと戦った。)これらのシビアな事実を踏まえてこの紀行文を改めて読むと、どうだろうか。④と⑤にクルド族が出てくる。④イラク国境の町ハッカリあたりでは「やたらと警官と兵隊が多い」(184頁)。村上一行はクルド人の武装グループに停められた。男がイラク軍の毒ガス攻撃でやられた白目を見せに来る(190~191頁)。⑤クルド族の町ディヤルバクルでは、トルコ軍部隊が町を包囲している。マルディンの外の基地では「野砲の先は全部町の方に向けられていた。クルドの反乱があったらすぐに一発撃ち込めるようにだろう。まったくひどい話である。」と同情しつつ「他人の国の他人の町の話といえばそれまでだけど。」(207頁)と記す。国軍が国内に銃口を向けている。「他人の国の他人の町の話」ではないと村上は重々知っているだろうが、その先は書かない。①少し触れて良心の呵責を逃れつつもそれ以上をあえて書かない。政治的問題を巧みにスルーし、現代日本の大衆消費社会を生きる(良心的で非・政治的な)若者に売れた。②書こうとすれば大変な作業になる。ここらで止めるのが賢明だ。③本当の作業はここから始まるはずだ。それは読者一人一人の作業である。いや、村上はあえてそれも書かない。皆さんは、どう考えますか?