James Setouchi
村上春樹『遠い太鼓』講談社文庫1993年(単行本1990年)
村上春樹は1986年から1989年までの約3年間、日本を脱出してヨーロッパで暮らした。(その後数年間アメリカに暮らす。)ヨーロッパでの滞在先は主にギリシアやイタリア。その滞在記がこの本だ。ヨーロッパ滞在記、とも言うべきか。
この間村上春樹は『ノルウェイの森』『ダンス・ダンス・ダンス』を書き上げ、いくつかの翻訳をした。同時にこの滞在記を書き綴った。
この滞在記は軽いタッチで書いてあり、読みやすい。ユーモアも散りばめてある。読者は肩に力を入れず南ヨーロッパの風物を楽しむことができる。村上春樹得意の、料理の描写もある。時々奥さんが登場する。
(ギリシアやイタリアの諸問題について政治・経済・社会・歴史的視点から解明する本ではない。あくまで作家の滞在記だ。暇つぶしには悪くない。だらだらTVやゲームをするよりはましのはず。)
当時1980年代の日本はバブルで沸き、世界屈指の経済大国だった。旅行者・村上春樹は、豊かな日本を脱出して(日本に比べれば)貧しいギリシアやイタリアの都市や田舎に滞在する。南欧を見る目は、否応なく豊かな日本(とそれを相対化しようとする人)の目だ。今日(2023年現在)の目で見たとき、この四十年で世界は随分変わった。日本は特に変わった。世界屈指の豊かな国から、貧困化しつつある国へと。読者はいくつかの対照を考えながら読むことができる。
・1980年代の日本と2023年の日本の対照。
・1980年代の日本とギリシアの対照。
・かつて海運・造船で栄えたギリシアと1980年代の観光で生活しているギリシアの対照。
読者は(過去の豊かな日本への郷愁を感じることも出来るが)貧しくなっていくこれからの日本のあり方・生き方に思いを致すことも出来る。なお、題名『遠い太鼓』は、トルコの古い唄から取っている。
旅に出た理由:「ある日突然、僕はどうしても長い旅に出たくなったのだ。」(18頁)「遠い太鼓が聞こえたのだ。今となっては、それが僕を旅行に駆り立てた唯一のまっとうな理由であるように思える。」(19頁)とある。東京にいて有名になり始めると、広告や講演や対談の出演依頼が急増し、「無力感」と「疲弊」を感じた、ともある(40頁)。ともかく村上春樹は1980年代のバブルの東京を去り、南ヨーロッパへと旅立った。
ギリシア:観光シーズン(夏)には客でごった返すが、村上が訪れた秋から冬には閑散としている。冬は雷雨が激しい。ゼウスが雷を放つというのがよく分かる。(147頁など)
ヴァンゲリス:ミコノス島のギリシア人。六十代に近い。戦争前はピレエフス(アテネ郊外)でパン屋をやっていた。船乗りにもなりいろんな所に行った。船を降りていろんな仕事をした。たまたま誘われてミコノス島の集合レジデンスの管理人になった。子どもは二人いて、長男は発電所の技師、娘は美容師。孫も二人。自分は管理人室でカナリアと住んでいる。港周辺に友だちが多い。貧しいが、年金が下りる日を楽しみに指折り数えている。村上に対し非常に親切にしてくれる。(175~180頁ほか)この本には人物はあまり出てこないが、何人かについては注目して描いている。経済的に厳しいギリシアで、しかし好人物・ヴァンゲリスは何とか生き延びている。
ジョン:ベルギー人。昔ギリシアに来て(163頁にはヒッピー崩れのヨーロッパ人がミコノス島には多い、とある)、恐らくはギリシアの娘と結婚し、姑と共に暮らしている。旅行代理店に勤める。自称インテリで、村上に話しかけてはミシマとオーエが好きだという。ベルギーのインチキな文化を嫌いギリシアに来たが、ここには文化がない、とギリシアを嫌っている。
ヴァンゲリスとジョンは対照されている。村上はヴァンゲリスには好意を持つが、ジョンに対してはそうではない。村上は「なあ君、ジョン、ベルギーのことは忘れるんだな。起こってしまったことは、起こってしまったことなんだよ。・・60年だなんて、遥か背後に過ぎ去ってしまったんだよ。・・」(195頁)と(口に出しては言わないが)心中で語りかける。この村上の独白は村上自身への語りのようにも思える。ジョンはベルギーを忘れ今ここであるギリシアで生きるべきだと言いつつ、村上自身は日本を離れどこへ旅しようとしているのか? この段階ではまだ身の振り方は決まっていなかったに違いない。村上はジョンに自分に近い何かを感じたのかも知れない。
イタリア:ローマでは、車は渋滞し、泥棒は多く、郵便は届かず、人々は脱税が当たり前、と最悪の経験をした。シシリー島はマフィアが支配していて、皆の表情が暗い。フィレンツエの南のキャンティー地方のワイン作りのイノチェンティさんのワインは素晴らしかった(482頁~)。スイス人の奥さんのやっている民宿・雉鳩亭もよかった(487頁~)。
ウビさんの父親:ローマ北西のへんぴな村、メータ村を訪問。ウビさんの父親は戦時中他の人同様ファシスト党員だった。イタリアが敗戦しドイツ軍に捕まり収容所に送られさらに強制労働に従事。連合軍に解放されイタリアに帰国し村役場に勤務。彼をずっと待っていた恋人(信心深い)と結婚し、ウビさんが生まれた。ウビさんの長兄は貿易商、次兄は地方議会の議員。ウビさんは外務省。妹はミラノで税務署に勤めている。ウビさんの父親と母親は、山の斜面に張り付いた田舎に住み、父親は高額な年金を受け取っている。父親はいつも酒を飲み酔っ払っている。長兄と次兄もメータ村の近くに住んでいる。(251~271頁)→父親がアル中、兄二人が世俗的成功者であることを誇張表現として割り引けば、日本の田舎にもありそうなケースだと感じた。
オーストリア:ザルツブルグで音楽を聴いた。アルプスを車で走り、イタリア車が故障した。
日本:1989年秋に帰国。「この三年のあいだに日本の社会における消費のスピードが信じられないくらいドラスティックに加速された」と感じる(589頁)。日本の社会は「金箔をほどこされたこのいびつな疑似階級社会」だ。それでもここで自分は「ひとりの人間としての責任を負って生きていかなくてはならないのだ。」(561頁)。
村上は3年の旅を経た。「無力感」も「疲弊」も残ってはいるが(562頁)、何らかの覚悟を固めようとしているようにも見える。また村上は書く。「僕には今でも遠い太鼓の音が聞こえる。・・無性にまた旅に出たくなることもある。でも・・今ここにいる過渡的で一時的な僕そのものが、僕の営みそのものが、要するに旅という行為なのではないか」「そして僕は何処にでも行けるし、何処にも行けないのだ。」(563~564頁)
これは一種の仏教的な真理を語っているようにも見える。旅は経験した、出発前と出発後とで何が変わったか、何も変わっていないのかも知れない、でもこうして過去現在未来の時間の中にある自分を生きることが、生きるということなのだと。
文庫本のためのあとがき(1993年):ギリシアは「平熱社会」、日本は「微熱社会」、バブル時代には「準高熱社会」になった。「我々にはやはり『平熱社会』からの視点のようなものもそろそろ必要なのではないか・・・」(568頁)と村上は記す。ここには遠慮がちながら現代社会への提言のようなものがある。読者は村上春樹と共に南ヨーロッパの3年間の旅を経験し、あらためて日本の現実に帰ってくる。では、我々はどのように生きるべきなのか、と。
(紀行エッセイ・旅行記)
村上春樹『ラオスにいったい何があるというんですか?』(ラオス、北欧、トスカナ、北米など)、『雨天炎天』(アトスとトルコ)、伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』、小田実『何でも見てやろう』(欧米、アジア)、北杜夫『どくとるマンボウ航海記』(インド洋~ヨーロッパ)、中村安希『インパラの朝』(中央アジア、アフリカ)、沢木耕太郎『深夜特急』(アジア~ヨーロッパ)、安岡章太郎『アメリカ感情旅行』(アメリカ南部)、藤原新也『黄泉(よみ)の犬』(インド~熊本~オウム)、椎名誠『インドでわしも考えた』、池澤夏樹『セーヌの川辺』、高野秀行『語学の天才まで1億光年』(世界の辺境)、辺見庸『もの食う人びと』(世界の問題の現場で現地の人と食事)、石井光太『物乞う仏陀』(アジアの貧困)、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)『日本の面影』(明治初めの日本)、松尾芭蕉『奥の細道』、紀貫之『土佐日記』、宮本常一『忘れられた日本人』