James Setouchi
村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』講談社文庫 もと1985年単行本
短編集。作家自身は「はじめに」で「ここに収められた文章は原則的に事実に即している」と言っている。が、虚構かも知れない。『アンダーグラウンド』が人の話を聞いて書いた本なので、同じく人の話を聞いて書いたとするこの本を読んでみた。
「他人の話を聞けば聞くほど、・・人々の生をかいま見れば見るほど、我々はある種の無力感に捉われていく・・我々はどこにも行けないというのがこの無力感の本質だ。」人生は回転木馬のようなもので、「どこにも行かないし、降りることも乗り換えることもできない。・・」と作者は言う。
二つ紹介する。(ネタバレあり)
1 『レーダーホーゼン』
妻のかつての同級生は、母親に捨てられた。その母親は、夫と、娘を、捨てたのだ。彼女は、ドイツを一人で旅行し、夫のためにレーザーホーゼン(半ズボン)を買おうとして、夫と同じ体型のドイツ人に頼んで寸法を測って貰った。その時突然、夫に対する「耐えがたいほどの嫌悪感が体の芯から泡のように湧きおこってきた」「自分がどれほど激しく夫を憎んでいるかということをはじめて知った」・
この話は、何を言っているのだろうか。妻の友人の母親が、ドイツである日突然夫を憎んでいることを自覚し、そのまま離婚してしまう。人間には自分の中に自分でも分からない何かがあり、それが何かのきっかけで(この話では半ズボンの採寸をきっかけに)突然露出する。そして、人生がすっかり変わってしまう。合理的に説明すれば、それまでのいきさつに遠因がありそうだが、それは本人には自覚できない。人間は自らがかかえている「無明の闇」とも言うべきものに気づかないまま、引きずられて生きている。こう考えると、村上的ワールドでは確かにある。
2 『プールサイド』
彼は35才。若くして会社で成功し、美しい妻と結婚、さらに愛人もある。すべてを勝ち得ている人間だが、35才という人生の折り返し点に来て、自分が老いているという感覚を持つ。自分でもよくわからないが、「自分の中に名状しがたい把握不能の何かが潜んでいることを感じた」「それをいったいどうすればいいのか、まるでわからない」と彼は言う。「これ以上の何を求めればいいのか、彼にはわからなかった。」「気がついたとき、彼は泣いていた。両方の目から熱い涙が次から次へとこぼれ落ちていた。」・・・
この話も、世俗的には成功し申し分ない人生のように見えて、自分の中に何かが潜んでいる、何を求めればいいのかわからない、とする。「彼」は内面に空虚をかかえている。それがどこへどう爆発し彼をどこへ連れて行くか分からない、とすると、これもまた村上的ワールドだ。世俗的にはつじつまを合わせてうまくやっている、しかしそれば極めて危ういバランスの上に立っている。現代の都市生活者はすべてそうであろうか。1985年頃(バブル直前)の日本が物質的に豊かだが内面は不毛だ、という事態を言い当てていると言うべきか。内村鑑三なら、神信仰がないから空虚なのだ、と断じるかもしれない。
村上春樹の初期短編(30代前半頃までに書いたもの)を通じての感想だが、クールでカッコイイ(都会風でおしゃれ。場所は都会のシティーホテルやジャズ・バー、仕事は都会の文化産業、セリフもしゃれているなど)外見を持ちつつ、内実はかなり冷え冷えとしたホラーだったりする。恋人や親友の死、「僕」の中のどうしようもない喪失感、自分でも得体の知れない自分の中に抱え込んだ不可思議なもの。ユング心理学を使っているのか仏教の「無明の闇」を使っているのかわからないが、外見上のおしゃれな世界とは別の、黒々とした闇を抱え込みそれらに脅かされながら登場人物たちは辛うじて生きている。世界の都市生活者たちにとってここが共感できる点なのかもしれない。
読み出せば「くせになる」。面白いので次々読んでしまう。
*村上春樹(1949~)
1949(昭和24)年京都生れ、神戸育ち。神戸高校→早稲田大第一文学部に学ぶ。学生時代にジャズ喫茶を経営しつつ創作。『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』が初期の作品。長編『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ダンス・ダンス・ダンス』『ねじまき鳥クロニクル』『1Q84』『騎士団長殺し』などは大ヒットを重ねた。『街とその不確かな壁』は2023年発表。地下鉄サリン・オウム事件を扱ったノンフィクション『アンダーグラウンド』『約束された場所で』などもある。短編小説集、アメリカの小説の翻訳(『キャッチャー・イン・ザ・ライ』『グレート・ギャツビー』など)も多い。村上春樹の作品は、世界中の都市生活者たちに読まれている。海外の賞(カフカ賞、エルサレム賞など)を多数受賞。(新潮社の公式サイトの著者紹介などから)