James Setouchi
村上春樹『中国行きのスロウ・ボート』中公文庫1986年(単行本1983年)
初めての短編集。表題作他1980年~1982年発表の短編を収録。
(ネタバレします)
1 表題作『中国行きのスロウ・ボート』1980年4月『海』に初出
第1章で語りの現在が1980年頃だと明らかにされる。「僕」は自分について考え、さらに死について考えるとき、なぜか中国人のことを思い出す。
第2章。1959年か1960年頃、最初に出会った中国人について。恐らくは神戸エリアの小学校時代、模擬テストを受けに行った会場が中国人小学校で、そこの試験監督が中国人だった。四十才未満に見えたが、左足が不自由だった。(年齢から言えば日中戦争で戦傷を負ったのだろうか?)「わたくしはこの小学校に勤める中国人の教師です」「努力しさえすれば、わたくしたちはきっと仲良くなれる、私はそう信じています。でもそのためには、まずわたくしたちはお互いを尊敬しあわなければなりません」「いいですか、顔を上げて胸をはりなさい」「そして誇りを持ちなさい」
第3章では、東京の大学時代バイト先で知り合った無口な女子大生が中国人だった。父親は横浜の輸入商。彼女は日本生れ日本育ち。一度デートをした。行き違いがあり、彼女は言う「そもそもここは私のいるべき場所じゃないのよ」。「僕」は「もっと君のことを知れば、もと君のことを好きになれそうな気がする」「きっとうまくやれると思う」と和解を求め、彼女の電話番号を貰うが、「僕」は誤って彼女の電話番号を捨ててしまう。それきり彼女とは会えていない。本意ではない過ちと誤解のため二人は行き違い、もはや取り返しがつかない。
第4章では、28才の時、高校時代の同級生(中国人)と偶然東京で再会する。「僕」は過去のことがうまく思い出せないが、彼は「忘れようとすればするほど、ますますいろんなことを思い出してくる」と言う。彼は日本の中国人相手に百科事典を売っている。何年か先にも自分は中国人相手に営業をしているかもしれない、と彼は言う。
第5章、再び30才を超えた「僕」の現在。「ここは僕の場所でもない」と「僕」は叫び出しそうだ。「僕」を取り巻くのは「実体なんて何処にもない。空売りと空買いに支えられて膨張し続ける巨大な仲買人の帝国」だ。確かに「ここはいるべき場所じゃない」のかもしれない。「それでも僕は・・・空白の地平線上にいつか姿を現わすかもしれない中国行きのスロウ・ボートを待とう。そして中国の街の光輝く屋根を思い、その緑なす草原を想おう。」「友よ、友よ、中国はあまりにも遠い。」
村上春樹の作品には、中国に対する関心が見え隠れする。父親の中国大陸での戦争体験もところどころで触れられる。もしかしたら本作品も、中国そのもの、あるいは大陸の中国人に対する思いを隠喩として込めているのかも知れない。自作が中国でも読まれていることを、作家自身も意識しているかも知れない。本作に登場する中国人3人は、いずれも在日中国人だ。神戸エリアや東京に在住する在日中国人との関係をまずは描いている(注1)。それをてこに、本土の中国・中国人との魂の交流を本当はしたいのだが・・・という希望を述べているのかもしれない。「僕」は中国行きのスロウ・ボートの夢を捨ててはいない。同時に夢の実現が遙かに遠いとも実感している。(注2)(注3)(注4)
(注1)山根由美恵は、「村上春樹『中国行きのスロウ・ボート』論」(広島大学国語国文学会『国文学攷』173号、2002年3月)の中で、「内なる差別を行っていた自分に気づいていく『僕』の姿が描かれている」とし、「対社会意識の作品群の出発点として位置づけられる」とした。
(注2)そもそも村上春樹の作品群に出てくる「僕」は、誰とでも(日本人とでも)関係を取り結ぶのが器用ではない。作家自身は住居を船橋→藤沢→千駄ヶ谷と移し、さらにヨーロッパへの長い旅に出ることになる。
(注3)中国では1976年に周恩来・毛沢東が死去、1978年に鄧小平の改革・開放路線に舵を切っていた。
(注4)のち2012年尖閣諸島問題に際し村上春樹は「魂の行き来する道筋を塞いではならない」と述べた。
2 『午後の最後の芝生』1982年8月『宝島』が初出。「僕」は三十代半ば。十代の終わり頃芝生を刈っていた。彼女に振られた「僕」は、最後のアルバイトとして神奈川県のある家の芝生を刈る。そこの女主人が屋内を見せてくれた。そこは女の子の部屋だったが・・・(以下略)