James Setouchi
アンドレ・ジッド『田園交響楽』André Gide “La Symphonie Pastorale”
1 アンドレ・ジッド 1869~1951
フランスの作家。ノーベル文学賞(1947年)。パリ生まれ。父はパリ大学の法学部教授。家庭は厳格なプロテスタントだった。幼児は病弱だった。従姉妹マドレーヌに恋し結婚。同性愛者でもあった。ローマ・カトリック、ナチズム、ソ連などに批判的な言説を行った。周囲にはポール・クローデル、ジャック・コポー、ジャン・シュランペルジェ、ロジェ・マルタン・デュ・ガールらがいた。代表作『背徳者』『狭き門』『法王庁の抜け穴』『田園交響楽』『贋金(にせがね)使い』など。(新潮文庫の解説などを参照した。)
2 『田園交響楽』(1919年出版)(ネタバレあり)
短編だが面白く読める。主人公(語り手)の日記という体裁を取っている。主人公(語り手)「私」はプロテスタント(新教)の敬虔な牧師だ。妻と5人の子がある。ある日仕事で訪れた家で孤児を発見する。孤児(少女)は汚い動物のようで、虱(しらみ)がわき、目が見えず、物を言わず、近所の人からは白痴と見られ、汚い動物のようだった。牧師は、彼女を「迷える羊」(キリスト教の聖書の言葉)と見、キリスト教徒としての使命感から、家に引き取り育てることにする。妻は当初反対したが、やがて献身的に義務を果たすようになる。ジェルトリュードと名付けられた少女は奇跡的に人間の感情を取り戻していく。牧師はジェルトリュードに言葉を教えていく。息子のジャックも手伝う。このあたりは、ヘレン・ケラーとサリバン先生の物語のようである。
だが、美しい少女に変貌したジェルトリュードに、牧師は我知らず恋心を抱いてしまう。妻はそれを察知し呆れるが、牧師は自己欺瞞により己の内なる欲望から目をそらし、聖書の言葉で飾り立てジェルトリュードの世話を続ける。
ジェルトリュードは牧師に感謝し純愛を捧げる。
妻は嬉しくない。
息子のジャックもそこにからんで…
ジェルトリュードは視力の手術を受けることになった。牧師はジェルトリュードに、世界の美しい側面しか教えていなかった。ジェルトリュードは目が開いた時、何を見てしまうのだろうか?
ここから先は大きくネタバレしてしまうので、書かない。ご自分でお読みください。悲劇的結末が待っている、とだけ書いておこう。
この話は、キリスト教信仰をどう考えるか?というテーマをも含んでいる。
牧師は、聖書の中の福音書(キリストや弟子たちの言行録)とパウロ(十二使徒ではない。異邦人への宣教者。キリスト教では重要な人物)の言葉とを切り分け、キリストの言葉を選び、パウロの戒律や禁止を退ける。息子のジャックは、そうではなく、パウロの言葉も大切だ、と主張する。
また、ラストに近い部分で、次のような会話がある。牧師「自然の法則は、人間の法則や神の法則が禁じていることを許している」ジェルトリュード「でも、神の法則はすなわち愛の法則そのものだと、牧師様はたびたびおっしゃいました」という会話がある。牧師は、妻帯者である自分はジェルトリュードと男女の愛に陥ることはできないとしつつ、自然界にはそれはありうる、と言う。ジェルトリュードは、神は我々二人の愛を許すはずだ、と言いたい。ジッドは、教会の教え(と人間界の制度)から逸脱した男女の愛は許されるか否かをこの会話で問うていると思われる。ジッドは同性愛者でもあった。
よくよく読むと、キリスト教会の教えに深く影響を受けつつ、果たしてこの信仰でよいのか?(反対に、現代の社会や教会の制度は果たして真実に神の教えに従っているのか?)を問い詰めようとしているジッドの姿が浮かび上がるような気がする。それは、トルストイはじめ同時代の人が問うた問いでもあった。
あなたは、どう考えますか?
(フランス文学)ラブレー、モンテーニュ、モリエール、ユゴー、スタンダール、バルザック、フローベール、ゾラ、ボードレール、ランボー、ヴェルレーヌ、マラルメ、カミュ、サルトル、マルロー、テグジュペリ、ベケット、イヨネスコ、プルースト、ジッド、サガンなどなど多くの作家・詩人がいる。中江兆民、永井荷風、小林秀雄、遠藤周作、大江健三郎らはフランス文学科に学び多くを得た。