James Setouchi
ギュスターフ・フローベール『ボヴァリー夫人』
Gustave Flaubert “Madame Bovary”
1 ギュスターフ・フローベール 1821~1880
フランスの作家。ノルマンディー州ルワン生まれ。父親は高名な医師。パリ大学法科に学ぶが学年試験に落第。作家となる。代表作『聖アントワヌの誘惑』『サラムボー』『感情教育』『弱き者の名は』『まごころ』『聖ジュリヤン伝』『ヘロディヤス』など。モーパッサンの師としても知られる。(集英社世界文学全集の年譜などを参照した。)
2 『ボヴァリー夫人』(1857年出版)(ネタバレあり)
虚栄心の強い美しい人妻が不倫で破滅する話。「道徳に違背し、宗教を冒瀆し、良俗を壊乱のかどにより」起訴された、いわゆるボヴァリー裁判で有名。(無罪判決。)当時はナポレオン三世の第二帝政時代。
田舎出身の、都会の華やかな恋愛に憧れる、虚栄心の強い勘違い女が、つまらぬ男に騙され、夫を裏切り、抜け目ない商人につけ込まれ、破産し破滅する物語、と言ってしまえば、通俗メロドラマの筋書きのようであるが、それだけではない。作家は「ボヴァリー夫人とは、僕です」と言ったという。その真意は知らないが、夢想と現実のギャップに引き裂かれ、懸命に生きようとしてなお愚行を繰り返すエンマ・ボヴァリーは、決して特異な奇妙な人物ではなく、あなたや私の中にもいるのではなかろうか? 1800年代フランスの田舎の、自称紳士の皆さんのエゴイスティックな正体も、描き尽くして容赦がない。フランス文学、恐るべしである。以下、主な登場人物を紹介しよう。
・エンマ・ボヴァリー(ボヴァリー夫人):田舎町ヨンヴィル・ラベイの開業医、シャルル・ボヴァリーの妻。年若い後妻で、美人。少女時代修道院にいたこともある。田舎の平凡な夫に飽き足りない。文学少女時代の夢、一度招待された上流階級(子爵様)のパーティーの夢から抜けきれず、つまらぬ男に夢中になり不倫に燃える。悪意ある商人に騙され、借金が膨れ上がり、破産し、破滅する。
・シャルル・ボヴァリー:田舎の開業医。善良で実直な人。妻を愛している。妻の目には退屈な男に映る。
・ベルト:エンマとシャルルの娘。
・老ボヴァリー:引退している。/・老ボヴァリー夫人:シャルルの母。エンマと対立する。
・ルオー爺さん:エンマの父。田舎の農場主。好人物。娘を愛している。
・オメー:ヨンヴィルの薬局店主。科学的知識の持ち主で、進歩主義者。カトリック司祭を批判。シャルル医師と親しくする。が、結局の所、名誉心の強い俗物。/・オメー夫人:オメーの妻。子どもが三人。
・ギヨーマン:公証人。
・レオン:公証人の書記。エンマに恋心を寄せる。一度は離れるが、やがて再会し…
・ロドルフ:軽薄で女たらしの田舎紳士。エンマを誘惑するが…
・ルウルウ:近所の商人。エンマに高価なものを売りつけ、高利貸しを行い、破産させる。
・ブールニジアン師:近所のカトリック司祭。薬剤師オメーと論争する。
・イポリット:宿屋の若者。足が悪く、シャルルの手術を受けるが…
・ジュスタン:薬屋の若者。年上のエンマに憧れるが…
エンマは愚かだ。奇妙な夢想にとりつかれることなく地に足の着いた人生を送るべきだ。シャルルは決して悪い夫ではない。所詮恋情とは獣欲に過ぎず煩悩に過ぎない。こう言うことは簡単だ。
だが、エンマは過剰な夢を、願望を抱え、田舎の日常から否応なくはみ出してしまう。エンマの過剰な情熱を満たすだけのものは田舎にはない。
では、エンマはリスクを覚悟でパリに出て人生の勝負を仕掛けるべきだったのか。だが、1800年代前半(舞台はおそらくそのころ)のフランスにその条件は整っていない。
では、情熱や憧れを抑圧し、日常に自足する生き方をすべきだったのか。そういうことになる。知性あふれる薬剤師のオメーもそうした。与えられた条件下で、しかしできる工夫をなそうとしている。そう、オメーもまた、エンマ的な過剰を持っている。現実に飽き足らず何かを夢想し、いま・ここではないいつか・どこかに憧れる。それは、近現代の多くの人の姿であるに違いない。ボヴァリー夫人は、(作家自身の言の如く)私であり、あなたでもある。
それにしても周囲の者のエゴイスティックな姿にはうんざりする。特に悪徳商人ルウルウ。エンマの弱みにつけ込み欺き財産を搾り取る。他の者たちもそれぞれに俗物性をあらわにする。
これらに比べたとき、非常に愚かと見えたエンマの恋情が、実は非常に人間的で崇高なものにさえ見えてくる。男爵もエマもお人好しに過ぎる、と読む人もいるだろうが、善良な美しい魂が踏みにじられることの痛みを、失われた貴族文化への愛惜を、フローベールは書いたのかも知れない。フローベールはロマンティックな情熱の価値を知り抜きつつ、それを冷静に客観的に(批判的に)描き得た作家だと言われる。皆さんはこれを読んで、どのような感想を持つであろうか。
(フランス文学)ラブレー、モンテーニュ、モリエール、ユゴー、スタンダール、バルザック、フローベール、ゾラ、ボードレール、ランボー、ヴェルレーヌ、マラルメ、カミュ、サルトル、マルロー、テグジュペリ、ベケット、イヨネスコ、プルースト、ジッド、サガンなどなど多くの作家・詩人がいる。中江兆民、永井荷風、小林秀雄、遠藤周作、大江健三郎らはフランス文学科に学び多くを得た。