James Setouchi

 

ヴォルテール『寛容論』中公文庫 中川信・訳

 

1 ヴォルテール1694~1778 

 フランスの思想家。本名フランソワ=マリー・アルゥーエ。

 1694年パリに生まれた。生家はブルジョワジーの上層。イエスズ会の学校に学び、古典的教養を蓄えた。自由思想家たちと交流、悲劇『オイディプス王』で有名に。このころヴォルテールと名乗る。身分差別に遭いイギリスに亡命、フランスにはない思想の自由に出会う。叙事詩『アンリヤッド』出版。帰国し悲劇『ザイール』。『哲学書簡 イギリス便り』ではフランスやカトリック教会を批判。パリを脱出しドイツ国境のシレーに愛人シャトレ公夫人と滞在、『マホメット』『メロープ』『ニュートン哲学入門』を発表。一時パリに戻るが、プロイセンのフリードリッヒ2世のもとに行き『哲学事典』『ルイ14世の世紀』を出す。やがてジュネーヴやフェルネーに住む。『風俗試論』『カンディード』を発表。また工場を作り、裁判の不正を糾弾、ヨーロッパ思想界の長老と見なされるに至る。悲劇『イレーヌ』がパリで上演される。1778年永眠。のち国家偉人廟パンテオンに祀られる。(この本の解説による。)

 

2 『寛容論』

 2015年シャルリー・エブド襲撃事件などイスラム過激派の事件がパリであったとき、もう一度「寛容」について考えてみようというわけでこの本がパリで売れている、さすがフランスの人は考えることが深い、などと言われたので、自分も購入して読んでみた。もともとは1763年に匿名で出版された本で、ヴォルテールは「ある立派な神学者の手になるものです」と言っていたとか(245頁)。

 

 きっかけは南フランスのトゥルーズのジャン・カラス事件だった。ジャン・カラス事件とは、ジャン・カラスという新教徒の男が息子を殺害したとされ死刑(1762年)になった事件だ。これは実は冤罪であって、トゥルーズの熱狂的な旧教徒たちの世論に押されてトゥルーズの判事たちがジャン・カラスを死刑にしてしまったのだ。当時トゥルーズは旧教徒が圧倒的に多く、新教徒は少数派だった。かつ、1562年の旧教徒による新教徒殺戮から200年の「お祝い」(!)があり、旧教徒たちは熱狂していた。ジャン・カラスは刑車の上で「判事たちの過ちをお許し下さい」と神に懇願した(解説及び第1章から)。ヴォルテールはこの事件は座視すべきでないと考え、カラスの家族に会い、知り合いの有名人を動員し、ついに再審・カラスの名誉回復を勝ち取った。その過程で『寛容論』は書かれた。

 

 内容は、ジャン・カラス事件への言及を冒頭に置く。寛容に関する原理論を述べ、次に古代ギリシア人、ローマ人、殉教者、古代ユダヤ教、イエス・キリストなどについて寛容の視点から検証する。さらに、各イエズス会など各修道会や教会の不寛容の誤りを指摘。最後にカラス事件の結末と、加えてカラス一家が救済されるべきことを述べる。一貫しているのは、狂信と不寛容への批判である。狂信が不寛容を生む。

 

 「地方ではほとんどいつも狂信が理性に勝をおさめているが、パリでは、たとえその狂信がいかに強大でありえようとも理性は狂信に打ち勝つのである。」(22頁)「(狂信という)狂人の数を減少させるいちばんの手段は、この精神の病の治療を理性の手に委ねることである。」(48頁)「われわれの本性の悲惨が許容する範囲で、この世で幸せであるには、何が必要か。寛容であることである。」(154頁)

 

 ヴォルテールは博学で古代ユダヤ教やキリスト教の歴史について詳しく、ここも面白い。パウロに対しローマ司法官フェストは(みずからの軽蔑の念とは別に)ローマ法に従い安全を図った(60頁)。聖ラレンティウス(3世紀)は宗教的信念から殉教したのではなく、管理する金銭をローマ総督に渡さなかったからだ(65頁)。聖グレゴリウス・タウマトゥルグス(3世紀)は僧侶や当局を激怒させる存在だったが何ら拷問にあっていない(71~73頁)。ディオクレティアヌス帝(300年頃)はキリスト教徒を妃に迎えた(75頁)。偶像禁止のはずなのにモーゼは青銅の蛇を作りソロモンは12頭の牛の像を彫った(98頁)。神は主の箱を覗いたペリシテ人を罰したが、異なった信仰を罰したのではなく、神への信仰の冒瀆や不謹慎な好奇心などを罰したのだ(103頁)。その他その他。これらヴォルテールが引用する知識が一つ一つどこまで妥当か、私は知らない、(すべて検証しようとすれば膨大な年数がかかるだろう。)ヴォルテールは、本来神は寛容を教えているのであって、狂信と不寛容を教えてはいない、と主張している。「聖書は、神が他のあらゆる民族を寛容されたばかりでなく、慈父のごとき心遣いを示されたことをわれわれに教えている。」(106頁)

 

 次の所は気に入らなかった。ローマ皇帝が戦争に勝利したとき、国を挙げての祭りで、月桂樹の枝を戸口に飾るのをキリスト教徒は拒んだ。これは非難すべきこれみよがしな態度であって、不敬罪と受け取られるのは当然だ、とヴォルテールは言う。(68頁)だが、戦争=殺しいあいをキリスト教徒が祝わないのは当然ではないか? むしろ、戦争を避け得た(平和的に解決した)ときにお祝いをするべきではないか? と私は疑問に感じた。皆さんはどう考えますか? 

 

(十代で読める哲学・倫理学、諸思想)プラトン『饗宴(シンポジオン)』、マルクス・アウレリウス・アントニヌス『自省録』、『新約聖書』、デカルト『方法序説』、カント『永遠平和のために』、ショーペンハウエル『読書について』、ラッセル『幸福論』、サルトル『実存主義はヒューマニズムである』、ヤスパース『哲学入門』、サンデル『これからの「正義」の話をしよう』、三木清『人生論ノート』、和辻哲郎『人間の学としての倫理学』、古在由重『思想とは何か』、今道友信『愛について』、藤沢令夫『ギリシア哲学と現代』、内田樹『寝ながら学べる構造主義』、岩田靖夫『いま哲学とは何か』、加藤尚武『戦争倫理学』、森岡正博『生命観を問いなおす』、岡本裕一朗『いま世界の哲学者が考えていること』などなど。なお、哲学・倫理学は西洋だけではなく東洋にもある。日本にもある。仏典や儒学等のテキストを上に加えたい。『スッタ・ニパータ』、『大パリニッバーナ経』、『正しい白蓮の教え(妙法蓮華経)』、『仏説阿弥陀経』、懐奘『正法眼蔵随聞記』、唯円『歎異抄』、『孟子』、伊藤仁斎『童子問』、内村鑑三『代表的日本人』、新渡戸稲造『武士道』、相良亨『誠実と日本人』、菅野覚明『武士道の逆襲』などはいかがですか。