James Setouchi

 

サマセット・モーム『月と六ペンス』(金原瑞人訳、新潮文庫)

William Somerset Maugham  〝The Moon and Sixpence〟 

 

1 サマセット・モーム 1874~1965

 イギリスの作家、劇作家。パリ生まれ。幼くして両親と死別、南イングランドの叔父のもとで育つ。ドイツのハイデルベルグ大学やロンドンの聖トマス病院付属医学校で学ぶ。『ランベスのライザ』『人間の絆』『月と六ペンス』『世界の十大小説』など。(新潮文庫の作者紹介などを参考にした。)

 

2 『月と六ペンス』(ネタバレあり)

 1919年出版。作者45才の時の作品で、空前のベストセラーとなった。タヒチで暮らした画家ゴーギャン(1848~1903)の生涯にヒントを得ているが、ゴーギャンの伝記ではない。ストリックランドという狂気とも見える天才画家の生涯を描く。実に面白い小説だ。読み始めると目が離せない。

 

 若い作家である語り手「わたし」は文士の集まりで、ストリックランド夫人を知る。夫人は家庭に文士を招待してパーティーを開くのが好きな女性だった。そこはロンドン中心部ウエストミンスターの中産階級の住むところで、夫は実業家(株の仲買人)だった。夫は文学や芸術には全く興味がなく黙って株の仕事をしている。夫人は幸福な家庭を築いていた。

 

 ところが、事態は急転回する。夫が若い女とパリに駆け落ちしたらしいのだ。夫人は嘆き、親族は怒った。語り手「わたし」は夫人のために夫を探し連れ戻すためにパリへ向かう。だが、そこで「わたし」が見たものは・・・

 

 このへんからが非常に面白い。ネタバレになってしまうので知りたくない人は作品から先に読んでください。

 

 「わたし」がパリでストリックランドを探し当ててみると、ストリックランドは若い女と駆け落ちしたのではなかった。すべてを捨ててパリに行き、画家としての新しい人生を始めようとしていたのだった。もう四十過ぎなのに。世俗の成功と幸福な家庭があるのに。だがストリックランドにはそんなことはどうでもよかった。ただやむを得ざる内面の促しに促され、天啓に従うかのようにして、出奔(しゅぽん)してきたのだった。金はなく、美術家の人脈もない。それでも、ストリックランドは「描かなくてはいけないんだ」という促しに従った。「わたし」は説得に失敗しロンドンに帰る。

 

 残された夫人たちは夫と収入を失い生活を立て直さなければならないが、それはこの小説の本筋ではない。本筋は、ストリックランドの数奇な人生と強烈な個性を描くことにある。ストリックランドはその後パリで絵を描き続ける。ここにストルーヴェ夫妻が登場する。ストルーヴェはイタリアの風景を描き世俗的に一応の成功をしている画家で、お人好しのいいやつだ。家庭を大事にする人だが、ストリックランドの才能をいち早く見抜いた人でもある。困窮し病気で死にかかっているストリックランドを、家に連れて帰り看病する。だが、…

 

 ここは紹介してしまうのは惜しいのであえて割愛する。是非お読みください。

 

 ここまでが前半だ。

 

 やがてストリックランドはマルセイユに行き、関わった人たちの証言によれば(事実かどうかも不明だが)貧しい港湾労働者・失業者としての日々を送ったらしい。地元のボスと悶着を起こし逃亡、タヒチにたどり着いた。タヒチには色々な人がいる。ストリックランドのような強烈な個性さえも許容された。イギリスにもフランスにも居場所のなかったストリックランドが、落ち着きどころを得た。地元の女性アタと結婚し、亜熱帯の原生林と現地人に囲まれ、絵を描いた。その絵は何とも言えない原始的な魔力に満ち満ちていた。当時のヨーロッパ画壇では理解されなかったが、ストリックランドの死後突如として有名になり、高い価格がついた。

 

 ストリックランドはタヒチで死んだ。その死に方も描いてあるがここでは紹介しない。是非お読みください。

 

 面白いのは、予想外の展開、しゃれた会話、モーム独特の辛辣な批評もあるが、登場人物の個性がそれぞれに際立っている。何よりストリックランドが強烈だ。こんな人がそばにいたら迷惑だ。しかし、芸術の神に魅入られて世俗の生活を放り出す人は、このようであるのかもしれない。モームはその典型を描いて見せたかったのかもしれない。(実在のゴーギャンはもう少し現実世界との関わりが強いように見える。)美しく寛容なタヒチを、気詰まりなヨーロッパと対比しているのは、単純化しすぎのようでもある。現実のタヒチの生活はもう少し苦しいだろう。ストリックランドは欲するものを周囲に並べただけとも言える。が、第1次大戦で行き詰まったヨーロッパに、もう一つのありうべき社会のモデルを提示した作品とも言える。ロンドンに残されたストリックランド夫人はそれなりに生活を立て直し多少の虚栄心を持ちながら相変わらずの生活を行っている。だが、タヒチにあるものはそうではない。そこには荒々しいまでの生と死、芸術の生まれ出る現場があり、強烈な個性の許される自由があった。

 

 なお、6ペンスコインは、当時イギリスで結婚式のラッキーアイテムで、これを花嫁の靴に入れておくと経済的にも精神的にも恵まれ幸せな結婚人生をもたらすと言われているそうだ(どこかのブログで見つけた。)対して月は、ヨーロッパでは伝統的に狂気の象徴。芸術の狂気にとりつかれたストリックランドは、家庭的な幸せを破壊しながら暴走する、あなたは芸術の狂気と家庭の幸福と、どちらを取りますか? という含意であろうか?  

     

(イギリス文学)古くは『アーサー王物語』やチョーサー『カンタベリー物語』などもあり、世界史で学習する。ウィリアム・シェイクスピア(1600年頃)は『ハムレット』『ロミオとジュリエット』『リヤ王』『マクベス』『ベニスの商人』『オセロ』『リチャード三世』『アントニーとクレオパトラ』などのほか『真夏の夜の夢』『お気に召すまま』『じゃじゃ馬ならし』『あらし』などもある。18世紀にはスウィフト『ガリバー旅行記』、デフォー『ロビンソン・クルーソー』、19世紀にはワーズワース、コールリッジ、バイロンらロマン派詩人、E・ブロンテ『嵐が丘』、C・ブロンテ『ジェーン・エア』、ディケンズ『オリバー・ツイスト』『クリスマス・キャロル』『デビッド・コパフィールド』『大いなる遺産』、スティーブンソン『宝島』、オスカー・ワイルド『サロメ』『ドリアン・グレイの肖像』、コナン・ドイル(医者でもある)『シャーロック・ホームズの冒険』、ウェルズ『タイムマシン』、20世紀にはクローニン(医者でもある)『人生の途上にて』、モーム『人間の絆』『月と六ペンス』、ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』『灯台へ』、ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』、ジョイス『ユリシーズ』、オーウェル『1984』、リース『サルガッソーの広い海』、現代ではローリング『ハリー・ポッター』、カズオ・イシグロ『日の名残り』『忘れられた巨人』『私を離さないで』などなど。イギリス文学に学んだ日本人は、北村透谷・坪内逍遥・夏目漱石をはじめとして、多数。商売の道具としての英語学習にとどまるのではなく、敬意を持って英米文学の魂の深いところまで学んでみたい。