James Setouchi
2024.7.15
薦めてみる本 フィッツジェラルド『夜はやさし』谷口陸男・訳 角川文庫 Scott Fitzgerald“Tender Is The Night”
1 フィッツジェラルド1896~1940
アメリカ、ミネソタ生まれ。プリンストン大学中退。『楽園のこちら側』で有名になり、フランスで傑作『華麗なるギャツビー』を書く。ヘミングウェイらとともに「失われた世代」の代表選手と言われ、時代の寵児となった。日々パーティーや歓楽に明け暮れる。しかし美貌の妻ゼルダの浪費や病に苦しみ、金のために短編やハリウッドの台本を書くが、カリフォルニアで心臓発作で死去。長編『ラスト・タイクーン』はハリウッドを描こうとして未完。「人生は皆崩壊(Crack-Up)の過程だ」という言葉が有名。だが、それだけではない。
2 『夜はやさし』
1934年刊。1951年決定版が刊行された。1934年のオリジナル版では、主人公ディックと若い女優ローズマリーの出会いから描かれ、過去に遡りディックとその美しい妻ニコルの出会いが語られる。1951年の決定版では、原作者没後、他の人が、まずディックとニコルの出会い、次にローズマリーとの出会い、と時系列に沿い並べ直した。角川文庫版(谷口陸男・訳)は後者。舞台のほとんどは第1次大戦後の欧州。「ギャツビーは傑作だった。だがこの作品は信仰の告白なんだ」という言葉が伝わっている。
主な登場人物は次の通り。
・ディック(リチャード)・ダイヴァー:精神科医。北部の清貧な牧師の子。礼儀正しく寛容。超高学歴で、学者としても臨床医としても将来を嘱望されている。が、ニコルと結婚し、やがて若い女優ローズマリーと出会い、・・・
・ニコル:アメリカの富豪の娘。浪費家。ある事情でディックの患者となるが、やがてディックの妻となる。その後・・・
・フランツ:ディックの友人で精神科医。ディックと共同で医院を経営する。
・ウォーレン氏:ニコルの父。アメリカの富豪。娘をディックのもとにやる。
・ベビー・ウォーレン:ニコルの姉。アメリカの富豪の娘。自分の思い通りに人を動かそうとする。ディックに対し「あなたはあたしたちが買ったものよ・・独立してるようなふりをつづけるのはばかばかしいわ」と言う(下17頁)。アメリカ領事館でも「あたしたちはアメリカでは相当な身分の者です」(下125頁)と理不尽な主張を強引に押し通す。
・ローズマリー:若い女優。『お父さんっ娘(こ)』という映画で有名になった。ディックと恋に落ちるが・・・
・スピアーズ夫人:ローズマリーの母親。娘のローズマリーに「あなたは仕事をするために育てられてきた」「あなたは経済力では男性」と言う(上176頁)。
・トミー・バルバン:ニコルを崇拝する男。ニコルのために決闘をする。
3 コメント(ややネタバレあり)
アメリカは第1次大戦後世界一豊かな国になったが、中でも富裕層が富を独占し貧富の差が拡大し、富裕層は堕落していった。(おや、現代のどこかの国と同じような・・・? 注1)富裕層の典型であるウォーレン一家は、キリスト教に背き、腐敗し、わがままで、浪費家で、人を金で支配できると思っている。主人公ディックは敬虔な牧師の家に育ち、医師としても学究として将来を嘱望される人物であったが、彼ら富裕層に巻き込まれ自らも道徳的に堕落していく。贅沢な買い物、パーティー。他方、ディックは、任された患者である妻ニコルを、医師としてよき夫として自らを犠牲にしてでも治療しようと苦闘する。ディックは父の死に際し「常によき人間であればよかったのに」(下170頁)と思う。根っこに敬虔なキリスト教徒としての信仰心を持ち、人間としての道徳的誠実さと医師としての職業倫理を持ちつつも、アメリカ社会の堕落に囲い込まれ、引きずり回され、引き裂かれていく。『ギャツビー』の語り手ニックはNYにうんざりし中西部の田舎に安住の地を求めようとするが、『夜はやさし』のディックにもはや安住の地はない(注2)。作家フィッツジェラルド自身も贅沢な毎日の中で経済的・道徳的に没落したと言われるが、作家自身は決してそのままでよいとは考えていない。アメリカ社会の現実(経済的には大恐慌で富裕層もダメージを受けるの)の中で本来の敬虔で良心的な生き方が失われていくことの嘆きを作品に描き込んだのではないか、と私は感じた。冒頭で紹介した「人生は崩壊の過程だ」で始まる自伝的小品『崩壊』(1936年)は、次の言葉で結ばれる。「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。」(マタイによる福音書 五章十三節)冒頭で「人生は皆崩壊の過程だ」という言葉を紹介したが、フィッツジェラルドは、「地の塩」でありたい、という願いを一方で持っていたに違いない。
注1:ピケティによると、全米の所得のうち上位1%の富裕層の占める割合が第1次大戦後急激に上昇し、1928年には23.9%に達した。その後下降し、1980年頃から反転上昇し、2007年には再び23.5%に達した(ピケティ&サエズ『アメリカの所得の不平等1993-1998』)(上野和子の論文からの孫引き)。なお、FRBの2020年上期末までのデータでは、上位1%の富裕層の合計純資産は34.2兆ドルだが、下位50%の資産額は2.08兆ドル(金子勝『人を救えない国』朝日新書2021年、104頁)。
注2:岡本紀元「『夜はやさし』とアメリカン・ドリームの崩壊」(甲南女子大学紀要(17),1980年)に指摘がある。