James Setouchi

 

サリンジャー『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』『シーモアー序章―』

J.D.Salinger Raise High the Roof Beam,Carpenters AND Seymour :An Introduction

(野崎・井上訳、新潮文庫)

 

1 J.D.サリンジャー 1919年~2010 アメリカ

 アメリカの作家。代表作『ライ麦畑でつかまえて(キャッチャー・インザ・ライ)』は一世を風靡した。他に『ナイン・ストーリーズ』『フラニーとズーイ』『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』『シーモアー序章ー』など。NY生まれ。父はポーランド系ユダヤ人、母はアイルランド系カトリック教徒。エリート校に学ぶが中退、田舎の軍隊の学校のようなところで学ぶ。職を転々とし作家に。陸軍でノルマンディー上陸作戦に参加。神経衰弱となる。『ライ麦畑』が人気爆発。1950年代からシーモアを長兄とするグラス家の物語を書き始める。晩年は人目を避け隠遁生活を送ったとされる。       (新潮社文庫カバーの作者紹介などを参考にした。)

 

 『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』Raise High the Roof Beam,Carpenters ”  (ネタバレします)

 『大工よ…』は1955年11月に「ニューヨーカー」誌に発表。『シーモア:序章』は1959年6月に同誌に発表。両者を併せて1963年にリトル・ブラウン社から刊行したことは知られている。

 

 初期作品『バナナフィッシュにうってつけの日』(1948年発表)で突然自殺したシーモア。グラス家の長兄にして天才だったシーモアはなぜ死んだのか。その謎は明かされていない。『ズーイ』(1957年発表)で末娘フラニーは精神的に混乱し「私、シーモアと話したい」と泣く。ズイーとフラニーは年上のシーモアに精神的影響を受けて育った。18才で博士号を取得し、古代諸語やアジア諸語の文献を読みこなし、兄弟中で最も英知があると畏敬されていたシーモアは、なぜ死んだのか。どういう人だったのか。

 

 『大工よ…』では、シーモアが1942年婚約者ミュリエルとの結婚式をすっぽかす話だ。語り手は次兄バディで、語りの時点は1955年に設定。バディは数少ない新郎側の人間としてNYでの結婚式に参加していたが、新郎のシーモアが現われない。結婚式はお流れになってしまった。たまたま同席した新婦側の人からシーモアに悪口が語られる。介添夫人(バーウィック夫人)は自称良識ある世間を代表しているかのような毒舌でシーモアの悪口を並べ立てる。その夫は妻に頭が上がらない。シルズバーン夫人は介添夫人を相対化してくれる存在だ。同席した耳の不自由な小柄な老人は、なぜかバディと気心が通じ合う。五人は渋滞に巻き込まれ、休憩しようと思った店も閉店で、仕方なくシーモアとバディの部屋に転がり込むことに。しかしそこで… バディは幼い頃の思い出をたどり直し、またシーモアの日記を読む。この後はネタバレになるので各自お楽しみください。結構面白い。

 

 なお、題名の『大工よ…』とは、妹のブーブーが長兄シーモアの結婚を祝した言葉の一節。妹はバスルームに兄宛のメッセージを書いていた。

 

3 『シーモアー序章―』Seymour an Introduction

 1959年発表。語り手は40才のバディ語りの時点は1959年。バディは大学の非常勤講師で、作家でもある。親しい兄であり天才詩人でもあったシーモアはなぜ死んだのか? バディは繰り返し問い詰めているように見える。

 

 柴田元幸は「長兄を欠いたグラスきょうだいは、『答えを持ってる奴にさっさと置き去りにされた』人たちであり、その意味では現代人の代表なのだ。』(新潮社のサイトから。『波』2014年3月号)とする。同時に、この『シーモア』は、最も近しい位置にいたバディー(二人の年齢差は2才)が、愛する兄を失い、その面影を追い求める物語である。兄とよく似た自分の生き方を探る物語でもある

 

 ユダヤ人とアイルランド人の混血で、芸人の家系だ。幼いころは一緒にラジオ番組に出た。大きくなると幼い弟や妹を育てた。万巻の書を読み、古典に通じていた。中国や日本の古典詩、特に荘子や禅や一茶に影響を受け、詩を書いた。長兄シーモアこそは凡百の創作家や研究者と異なり「真の芸術家」「見者」と呼べる存在だった。いつもバディのよき理解者、助言者だった。シーモアの体つき、顔つき。集中し始めると睡眠を忘れて研究に没頭した。軍隊にいたときも詩を書いた。その他その他。バディはシーモアを想起し、哀惜し、綴るほどにさらにシーモアへの哀惜は募る。

 

 だが、シーモア亡き後11年後の現実を生きるバディは、大学の女子学生たちの待つ教室へと戻らなければならない。かつてシーモアは言った「我々が一生の間にすることは、結局聖なる大地の小さな場所を次から次へとわたっていくことだ」と。

 

 愛する人を失い、その死の理由と意味を探っても答えは見えない。それでも探り続けざるを得ない。これは愛の書である。同時に、愛する人の死を受け止めて今を生きる書である、と私は読んだ。(イエスを失って生きる者たちの悲嘆を読者は連想してもよい。)  

   

(アメリカ文学)ポー、エマソン、ソロー、ストウ、ホーソン、メルヴィル、ホイットマン、M・トゥエイン、オー・ヘンリー、ドライサー、ロンドン、エリオット、フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、バック、フォークナー、スタインベック、カポーティ、ミラー、サリンジャー、メイラー、アップダイク、フィリップ・ロス、カーヴァー、オブライエンなどなどがある。