James Setouchi

 

アーネスト・ヘミングウェイ『われらの時代』 Ernest Hemingway “IN OUR TIME

                   (新潮文庫、髙見浩・訳 で読んだ。)

 

1 アーネスト・ヘミングウェイ1899-1961

  アメリカの作家。ノーベル文学賞。第1次大戦に従軍し負傷。パリに住み『日はまた昇る』などを刊行。第1次大戦で負傷した体験をもとに『武器よさらば』を書く。スペイン内戦に従軍し『誰がために鐘は鳴る』を書く。第2次大戦にも参加。大戦後『老人と海』を書く。「ロスト・ジェネレーション」の作家の一人であるとともに、20世紀前半を代表する作家と言える。

 

2 『われらの時代』“IN OUR TIME”  (ややネタバレを含む)

 ヘミングウェイ初期短編集。互いに緊密な関係があるわけではない短編が並んでいるが、中にニックの物語が入っており、ヘミングウェイの自画像のように見えなくもない。ここではニックの物語を三つ拾ってみよう。

 

『インディアンの村』では、ニックは子どもだ。医師である父親に連れられて、湖畔のインディアン(今ならアメリカ先住民という)の村に出かけ、赤ちゃんの出産に立ち会う。だが、同時に、そこで残酷で理不尽な死をも目撃する。「ぼくは絶対に死なないさ」とニックは強く思った、と小説は締めくくられる。訳者の髙見浩によれば、①ここは「自分はあんな死に方はしない、強く生きていくんだ、という積極的な自覚を得たシーン、いわゆる〝ヘミングウェイ・ヒーロー〟の誕生した瞬間」と従来解釈されることが多かった(新潮文庫473頁)。②が、本当か? ニックは今はまだ「生きることに、生き続けることに、おののいている」と解釈すべきではないか(474頁)。このように髙見浩は言う。私は、②の方が実感に近かった。

 

 『ファイター』では、ニックは少年だろう。家出をしたのか、貨物列車に無賃乗車をし、制動手にガツンと一発食らう。ニックは見知らぬ大人から暴力の洗礼を受けたのだ。とぼとぼ歩くニックは、一人の男と出会う。男はもとボクサーで、顔がひどく変形している。ニックは不気味だが親切そうなこの男と食事を共にするが、ここでも突然殴られそうになる。が、別の男の機転で辛うじて逃れる。ここでは①外界は理不尽な暴力に満ちている。②大人たちもまた暴力によってひどく痛めつけられている。③その暴力は突然理不尽に襲ってくるが、九死に一生を得ることもある。④その際別の人の親切が介在することもある。このようなメッセージを私は受け取った。

 

 『二つの心臓の大きな川』では、ニックは青年になっている。久しぶりに戻ってきた町は、しかし火事で焼き尽くされていた。川は紛れもなく残っていた。自然の中を、ニックは、重いザックを背負って歩き、渓流で鱒(ます)を釣る。自然の中を進み、アウトドアで食事を作り、テントを張ってキャンプをする。渓流で鱒を釣る。大物の鱒だ。これらの描写は、アウトドア派の人にはたまらない魅力だろう。ニックは鱒をナイフで切り裂く。その描写は生々しい。訳者の髙見浩は、「一瞬の暴力的な死が放つ生の輝き。ひくひく震えて硬直する鱒の姿に、逆説的な生の躍動感が見事にとらえられている。」と高く評価する(480頁)。だが、どうだろうか。私は、ここは残虐だと思った。A確かにここにはタフなニックが描かれている。が、B残虐な現実も描かれている。B残虐である現実と、Aそれを生きて行かざるを得ないタフな人間。ヘミングウェイはAB両者を描きつつ、本当はやはりBをより強調している(背後には作者の脅え、不安がある?)のではないか、と考えてしまった。

 

 ここで作者の伝記的な事実に戻ると、髙見浩によれば、『われらの時代』の短編群を書いたのは1920年代の前半、パリにおいてだ。そのわずか数年前の1918年、18才のヘミングウェイは、第1次大戦のイタリア戦線において、赤十字のメンバーとして参加、前線で迫撃砲弾の破片を浴び、重傷を負う(本書年譜460頁)。(のちに『武器よさらば』の題材になった。)人生の入り口に置いて理不尽な暴力の洗礼を受け、死にかかる。これがヘミングウェイの「文学の原点となった体験」(470頁)だ。『二つの心臓の…』の冒頭の、町が火事で焼き尽くされた描写は、大戦の空襲で破壊された町のイメージを重ねているに違いない。

 

 『われらの時代』では、各短編の冒頭に断章が添えてある。断章は第1次大戦の描写や、スペインの闘牛の描写だ。そこでは理不尽な殺害があえてドライに描かれる。B現実は理不尽で暴力的だ、Aだが我々はそれでもこの現実を生きていくしかない、Bそれでもこの理不尽で暴力的な現実は、あまりにも冷酷に過ぎるではないか、とヘミングウェイは言いたいのではなかろうか? 

 

 冒頭の『インディアンの村』で理不尽に死ぬのはインディアンの男だ。末尾に配した『二つの心臓の大きな川』では死ぬのは鱒であって人間ではない。が、そこに残虐な死が存在することに変わりはない。

 

 ヘミングウェイは、後年の『老人と海』では、カジキマグロと老人の、海での格闘を描いている。そこには老人がカジキマグロに対して圧倒的に優位な立場にあるわけではない。死ぬのは老人であったかもしれない。だが、『二つの心臓の大きな川』では、ニックは鱒に対して圧倒的な暴力を振るう存在として君臨している。力の差は歴然としている。作者・ヘミングウェイはこれに快感を抱いて描いているのか。それとも不快感を抱き問いを投げかけて描いているのか。若いヘミングウェイにはまだいろいろなものが混在して、よくわからなかったのかもしれない。いや、年を取ってもなお。マッチョに見えるヘミングウェイの内面には、柔らかく繊細な感受性が最初から最後まであった、と私は思う。(サリンジャーは、第2次大戦の暴力に対して嫌悪感を持っていた、と言われる。サリンジャーはヘミングウェイが嫌いだったとも。)あなたは、これをどう読むだろうか?

 

 なお、『われらの時代』には、ニックの物語ではない物語も含まれている。男女の愛のもつれの物語だ。

 

(アメリカ文学)ポー、エマソン、ソロー、ストウ、ホーソン、メルヴィル、ホイットマン、M・トゥエイン、オー・ヘンリー、ドライサー、ロンドン、エリオット、フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、バック、フォークナー、スタインベック、カポーティ、ミラー、サリンジャー、メイラー、アップダイク、フィリップ・ロス、カーヴァー、オブライエンなどなどがある。