James Setouchi

 

アーネスト・ヘミングウェイ『日はまた昇る』高見浩 訳 新潮文庫

Ernest Hemingway“The Sun Also Rises”

 

1 ヘミングウェイ1899-1961

 アメリカの作家。ノーベル文学賞。第1次大戦に従軍し負傷。パリに住み『日はまた昇る』などを刊行。第1次大戦で負傷した体験をもとに『武器よさらば』を書く。スペイン内戦に従軍し『誰がために鐘は鳴る』を書く。第2次大戦にも参加。大戦後『老人と海』を書く。「ロスト・ジェネレーション」の作家の一人であるとともに、20世紀前半を代表する作家と言える。

 

2 『日はまた昇る』執筆前後のヘミングウェイの状況

 高校卒業後大学に行かず新聞社を経て第1次大戦の赤十字運転兵としてイタリアへ。わずか7日で負傷。北米に住んだ後ハドレーと結婚しパリへ。

 

 スペインのパンプローナで闘牛観戦(23年から毎年)。25年6月、友人らとイラティ渓谷で鱒釣り。7月、サン・フェルミンのフィエスタへ。友人たちと女性関係でもめる。マドリードへ。

 

 これらの体験が『日はまた昇る』の材料になる。26年、『日はまた昇る』刊行。「ロスト・ジェネレーション」の寵児として脚光を浴びる。

(雑誌『pen』2011年4月15日号ヘミングウェイ特集の年譜および新潮文庫487ページ以下の年譜から。)

 

3 「ロスト・ジェネレーション」とは

 a lost generation とは、もともと「自堕落な世代」というほどの意味だったそうだ。だが、聖書の「失われた羊」のイメージを重ねられ「失われた世代」「あてもなくさまよう迷い子の世代」の意味で使われるようになった。第1次大戦に参戦しその悲惨で残酷な現実に触れることで、それまで奉じていたはずの道徳や正義が信じられなくなった世代、1920年代のアメリカ文学の作家たちをこう呼ぶ。ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、フォークナー、ドス・パソスらがこれにあたる。(新潮文庫高見浩の解説および集英社世界文学事典から)

 

4 『日はまた昇る』(ネタばれが含まれています)

 舞台は、パリ→スペインのパンプローナ(溪谷で鱒釣り、サン・フィエスタの祭りで闘牛観戦)→サン・セバスチャンで海水浴→マドリードと移行する。

 

 パリでは、第1次大戦後の金満のアメリカ人の若者たちの堕落した生活が描かれる。パンプローナでは自然と格闘し、バスク地方の純朴な人々と交歓し、フィエスタ(祝祭)の熱気に席巻され、闘牛士ロメロの凛々しい姿に惚れ惚れとし、ついに男女の問題で友人と大喧嘩し、最後はマドリードへ。問題は解決しているのかいないのか。同じような混乱の日々が続いて行くのか。

 

 ここで題名『日はまた昇る』は旧約聖書『伝道の書』の「日はまた昇り また入る」から取っている。ヘミングウェイはどういうつもりで『伝道の書』の一節を小説冒頭に置いたのだろうか? よく読むとこの小説にはキリスト教的なものが散りばめられている。スペインに向かう列車の中ではカトリックの巡礼の一行に出会う。パンプローナのフィエスタ(祭り)は無論カトリックの聖人サン・フェルミンの祭りだ。

しかし、主人公たちに神への敬虔な信仰があるようには見えない。スペインの宗教的風土はエキゾチックな興味を持って描かれるものの、主人公たちに神への信頼はないようだ。「日はまた昇り また入る」、自分たちには同じような神なく救いなき日々が続く。そうこの作品は言っているように見える。

 

 では、そこに全く救いや希望はないのか? ブレット(主人公のガールフレンドで、物語の中心人物)はラスト近くで言う、「性悪な女になるまいと決めたので、なんだか気分がいいの」「こういう気持ちって、神様の代わりにあたしたちが持ってるものじゃないかしら」。ブレットは若い闘牛士ロメロに惹かれながらも少なくともその若者の未来をつぶすようなことだけはするまいと決意して身を引く。彼女(彼ら)は、神への信頼は失っているけれども、それでもなお人間としてすべきこととすべきでないことの一線は引いて守ろうとする。彼らにおいて、人間はまだ捨てたものではない。そこに、明日は今日とは違う新しい日が昇る可能性はゼロではない、という作者の祈りが透けて見える。

 

 ヘミングウェイは、絶望的な20世紀に身を置きつつ、それでもなお人間の人間たるゆえん、人間の尊厳・威厳にこだわり、この後も傑作群を書き続けた、と私は考える。