James Setouchi

 

へルマン・ヘッセ『シッダールタ』新潮文庫・高橋健二訳

 Hermann Karl Hesse“Siddhartha

 

1 作者:ヘルマン・ヘッセ  1877~1862

 1877年ドイツのシュヴァルツヴァルトのカルプに生まれた。 父方はバルト系ドイツ人、母方はシュヴァーベン-スイス人の家系。ヘッセは初めカルプのラテン語学校に通うが、1891年以後、マウルブロン修道院のプロテスタントの神学校の寄宿生となり、わずか数ヶ月後にここから逃げ出す。カルプの塔時計工場ペロットのもとでの機械工見習をへて、彼はテュービンゲンとバーゼルで書店員としての職業を習得、自作(詩集散文)を出版。二度イタリアへ旅行し、1904年『ペーター・カーメンツィント(郷愁)』で大成功、マリア・ベルヌリと結婚、ボーデン湖畔に転居。三人の息子たちが生まれる。1911年に東アジア旅行、1912年以後はベルンに住む。1919年には長編小説『デーミアン』出版。彼は家族を伴わず南スイスのモンタニョーラ(テッスィーン)に移り、最初の結婚は解消され、1923年にはルート・ヴェンガーと結婚。『荒野の狼』は1927年、彼の50歳の誕生日に出版。1931年に彼はニノン・ドルビン(旧姓 アウスレンダー)と三度目の結婚。ヘッセは1924年以来スイス国籍だったが、第二次世界大戦中に、彼の生涯の最終的な決算となる作品『ガラス玉遊戯』(1943年)が出版される。1946年にヘルマン・ヘッセはノーベル文学賞を受賞し、1962年8月9日にモンタニョ-ラで没。第1次大戦時には敵国への憎しみをいましめ迫害された。(Hermann Hesse Portalというサイトをベースにして手塚富雄『ドイツ文学案内』も参照して書いた。)

 

2 『シッダールタ』

 新潮文庫解説の高橋健二によれば、1922年刊行。「インドの詩」という副題があった。第1次大戦後まもなく1919年に書き始められた。大戦でヨーロッパは荒廃し、ヘッセは非戦論故に祖国ドイツから白眼視され、家庭内の問題もあり、精神を立て直す必要があった。ヘッセの母方の祖父は印度学に詳しく、ヘッセもインド関連の文献を読んでいた。西洋キリスト教・市民社会の理想とは別に、インド系の思想に活路を見いだそうとしたのではないか? 1919年の『デーミアン』でデーミアンとシンクレールは新しい人間に生まれ変わろうとした。その先にある世界だと言える。

 

 ただしここで主人公シッダールタとは、ゴータマ・ブッダその人ではない。ブッダは別に出てくる。シッダールタは、ブッダと同時代の、ブッダとは異なる道で自分なりの救済(精神の完成)を求めようとした若者として設定されている。「ヘッセにとっては、…思想やことばは重要ではなかった。救われる体験の秘密が問題であった。その宗教的体験の告白を、ここにシッダールタという具体的人物に託して、象徴的に描こうとしたのである。…彼は…禁欲、瑜伽(ゆが)の行にいそしんだ」「あくまでヘッセ医自身の宗教的体験の告白である」(高橋健二)。この若者は、私たち東洋人が中国大陸や朝鮮半島経由のお経や説話で見聞している釈尊(お釈迦様)像とはどこかしら違っている印象がある。ドイツは印度学の進んだ場所だが、そこで得たものをヘッセなりに発酵させて描いた思想小説、と言うべきだろう。

 

 シッダールタ青年はバラモンの家に生まれたが、飽き足りず修行者沙門たちのところで修行する。友人のゴーヴィンダは当時有名だった仏陀に入門した。シッダールタは何か違うと感じ、遍歴の旅を続ける。やがて商人カーマスワーミや遊女カマーラと出会い、世俗的な経験を積む。それにも飽き足りず遍歴をし、川のほとりで渡し守ヴァズデーヴァと暮らす。カマーラとその子シッダールタ(父親と同じ名にした)が川に辿り着く。カマーラの死。息子の出奔。苦悩するシッダールタ。だが、川を見つめるうち、シッダールタの内面に変化が起きる。彼が至り着いた境地とは? 遠藤周作『深い河』の境地と同じか違うか? 道元とはどうか? ここでは論じない。

 

*ドイツの作家・詩人と言えば、ゲーテ、シラー、グリム、リルケ、トマス=マン、ヘッセ、カフカ、ブレヒト、エンデらがいる。最近では多和田葉子がドイツ語で小説を書いている。ドイツでは哲学者・社会科学者が有名だ。(カント、へ―ゲル、ショーペンハウエル、マルクス、ニーチェ、コーヘン、ヴィンデルバント、マックス=ウェーバー、ハイデッガー、ヤスパース、ハーバーマス、ルーマンなどなど。)心理学のフロイトもユングもアドラーもドイツ語圏の人だ。音楽家が多数いるのは周知だろう。