James Setouchi
フリオ・コルタサル『追い求める男』
Julio Cortásar 『El perseguidor』
1 作者 フリオ・コルタサル (1914~1984)
私はコルタサルという人を知らなかった。が、かつてはよく読まれたようだ。今でも知っている人は知っている。中南米を代表する作家の一人だ。
アルゼンチン人の子としてベルギーに生まれる。幼少期からアルゼンチンで過ごす。高校教師、大学教員、出版関係などを経てフランスに留学、以後フランスで過ごした。アルゼンチンの独裁者ペロンやチリのピノチェト軍事政権に反対し、キューバのカストロ政権やチリのアジェンデ政権には肯定的だった、と言われる。主としてスペイン語で創作した。フランス文学にも造詣が深い。(岩波文庫の解説他を参照した。)
私はコルタサルをあまり読んでいないが、それでもコルタサルという作家の不思議な世界に窓が開いたので、読んでみてよかったと思う。言わばブラックなショート・ショートとも言うべき話(『続いている公園』など)、現実の中になんとも言えない不気味なものが侵入し現実を脅かす話(『占拠された屋敷』など)、現実と夢想とが反転しどちらが真実か分からなくなる話(『夜、あおむけにされて』など)、現実の中に不思議な何かが出現し一瞬の幸福な夢を見ることができるが結局の所それも失われてしまうという話(『南部高速鉄道』『正午の島』など)などがある。ここでは『追い求める男』を紹介してみる。
2 『追い求める男』
題名の“El perseguidor”とは、追跡する者、追求者、探求者、というほどの意味であろうか。主な舞台はパリ。主人公ジョニーは天才的なジャズのサックスの演奏者だが、同時に麻薬中毒で生活破産者でもある。友人や仕事の関係者に迷惑をかけ、罵り、企画をぶち壊し、しかし異様な執念で常に何かを追求している。それは日常を超えた何か、向こう側にある何か、演奏が佳境に入るとき不意に顕現しこの世を超えさせてくれる何かである。ジョニーは「時間」とは何か、にこだわる。その「時間」とは、この世俗的な日常、借金に追われる現実、の時間を超えた真の時間の世界である。ジョニーは哲学者ではないし日常会話もままならぬので、周囲の人間にはジョニーの言っていることは理解できない。ジョニーの音楽のよき理解者で解説者をもって任じている音楽評論家の語り手「私」ブルーノにすらも。
「私」ブルーノはジョニーについての評論で収入と名声を得た。しかしジョニーはさらにその先へ行こうとする。「私」ブルーノは、天才ジョニーに魅せられつつも、これ以上振り回されたくない、いっそジョニーが死んでくれたら…とさえ考えてしまう。
そして、どうなるのか。それは読んでのお楽しみ。結末は寂しい。この世的なものを超えて何かを追い求めるとき、この世とは相容れなくなるのか? という問いが残る。解説によれば、作者コルタサルはこの時期宗教学、仏教、禅宗などの本を読み漁っていたという。
著名なジャズ奏者の名前が次々出てくる。ジャズの好きな人は夢中になれるだろう。
同じ中南米文学でもリョサやルルフォとは感じが随分違う。都会的な小説だ。
(中南米の文学)
フェンテス『アルテミオ・クルスの死』、ファン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』(メキシコ)、カブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』『族長の秋』(コロンビア、カリブ海)、バルガス=リョサ『緑の家』『密林の語り部』『ラ・カテドラルでの対話』(ペルー)、アレホ・カルペンティエル『失われた足跡』(キューバ、ベネズエラ)、イザベル・アジェンデ『精霊たちの家』(チリ)、コルタサル『追い求める男』(アルゼンチン)、ジーン・リース『サルガッソーの広い海』(イギリス、カリブ海、クレオール)、ヘミングウェイ『老人と海』『海流の中の島々』(アメリカ、バハマ~キューバ)など。