James Setouchi 

 

ジーン・リース『サルガッソーの広い海』 Jean Rhys“Wide Sargasso Sea”

 

1 ジーン・リース(1890~1979)

 ジーン・リース(女)の母方の曽祖父はスコットランド人だが西インド諸島のドミニカ(ドミニカ共和国ではなくドミニカ国の方の島)に移住し農園を経営した。が1833年に奴隷制廃止法が成立(イギリスはアメリカより早かった)、曽祖父死去後の1844年に労働者がその農園を焼き討ちした。ジーン・リースの父はウェールズとアイルランドの血を引いており1881年に医師としてドミニカに渡った。ジーンはこういう家系の下、ドミニカ(当時イギリスの植民地)で生まれた。ドミニカはスペイン人、イギリス人に支配された歴史を持つ。周囲にはフランス人の支配地もある。現地カリブ海の人の他にアフリカの黒人奴隷の子孫も多数住んでいた。ジーン・リースは17歳でイギリスに渡るが、おそらく西インド出身のクレオールであるがゆえに蔑まれ生きにくいと感じたであろう。複数の男性と関係を持ちあるいは結婚するが、夫が刑務所に入ったり、あるいは自身が刑務所に入ったりと、社会的には不運な日々が長かった。どこかで「イギリスあるいは広くヨーロッパへの不信と反抗心」を持っていたのではないかと池澤夏樹は考察している。1930年前後には執筆活動を行い作家として成長しつつあったが、戦争のため阻まれた。『サルガッソーの広い海』は1950年代から書き、1966年に出版した時すでに76歳だった。この作品は高く評価された。1978年には大英帝国勲章を受章した。(河出書房新社 池澤夏樹=個人編集の世界文学全集Ⅱ―01『灯台へ サルガッソーの広い海』の池澤夏樹の解説を参考にした。)

 

2 『サルガッソーの広い海』

 C・ブロンテの『ジェーン・エア』(1847年刊)は有名な作品だ。健気なジェーンは苦労をはねのけ努力しエドワード・ロチェスターという男性と相思相愛になるが、実はエドワードには、西インド出身の狂気に病んだ妻がいた(ネタバレでごめんなさい)。『ジェーン・エア』では、この狂気の妻が怪物のように描かれている。ジーン・リースは、『ジェーン・エア』を読んで、健気な少女ジェーンではなく、「この狂気の妻に感情移入した。西インド諸島出身というキーワードがロチェスター夫人とジーン・リースをつないだ。」(前掲書p.478池澤夏樹の指摘)。ジーン・リースは、この西インド出身の狂気の妻が不当に貶められているのを残念に思い、この女性も人間だ、この女性にもこの女性なりの苦しみの人生があったのだ、誰がこの女性をここまで追い詰めたのか、を問いたかったに違いない。この女性バーサ、本当の名前はアントワネットを主人公として、その生い立ちから語り起こし、夫との結婚、狂気とされイギリスで暮らすまで、を語り直したのが、この『サルガッソーの広い海』だ。『ジェーン・エア』と比較して読むとき、C・ブロンテがあまりにも安易に悪役に仕立て差別的言辞で取り囲んだこの女性にも、実は人間としての生活があり苦悩があったのだと読者は大いに同情するのではなかろうか。

 

 『サルガッソーの広い海』の舞台設定は、植民地における白人の支配がゆらぎ、現地人や黒人奴隷、また新興白人の勢力が伸長していく時代である。主人公アントワネットは白人だが植民地(ジャマイカ島)生まれであり、ヨーロッパの白人からも現地人や黒人からも疎外されている。彼女の生きる場所は夫と新婚生活を始めたドミニカにしかない、と彼女は考えている。夫(『ジェーン・エア』のエドワード)はイギリスの貴族だが長子ではなく疎外感を抱きこの植民地に来ている。白人の農園経営者が現地の女に産ませた異母兄弟たちも登場し、それぞれに苦しみを抱えている。現地の呪術使いの老女もキー・パーソンとして登場する。

 

 このことはジーン・リース自身の課題とも対応しているだろう。題材はジーン・リースの先祖の時代社会に求められている。イギリス人とはいえイングランドではないスコットランド・ウェールズ・アイルランド系の血を引きかつ植民地で生まれ育った彼女の安住の場所はどこにあるのか。自分はそもそも何者なのか。

 

 同時に、『サルガッソーの広い海』は、1960年代のイギリスの社会的課題に対応してもいる。1950年代にアジア・アフリカの国々が独立した。西インド連邦がイギリス連邦内の自治国として独立したのは1958年。これは1962年に解散しイギリスの直轄植民地に戻るが、その後1962年にジャマイカが独立するなど島々は独立の方向に向かった。(ドミニカは、1967年に西インド連合州の一部として自治を獲得、1978年に独立。)イギリスの人々は西インド(だけではないが)の動きに注視していたであろう。同時に、1960年代のイギリスは経済が停滞し「イギリス病」と言われた。人々の暮らしは豊かではなく昔日の大英帝国から「没落」する実感を人々は持っていたであろう。すでに白人優位の世界ではない。レヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』は1955年だ。カリブ海の呪術使いの老女も存在感を持って複雑な関係の中を生きている。この造形は浅薄なオリエンタリズムの産物ではない。『サルガッソーの広い海』の出版は1966年だ。

 

 この小説の中心はアントワネットの苦しみにある。だが夫(エドワード)も苦悩している。この作品では男女の愛は可能に見えて悲劇に終わる。読者はこの作品に愛の苦しみを読み共感することもできる。同時に、上記の社会背景を踏まえて読むとき、アントワネットおよびジーン・リースの苦闘に、21世紀の混迷した現代世界において安住の地を求めて苦闘する我々の課題と相通ずるものを見てとることができる。この小説の結末はアントワネットのイギリスでの自爆的行為の悲劇に終わるが、21世紀のロンドン(あるいは先進国の大都市)における自爆テロを予言した書と読めば、言いすぎであろうか。