James Setouchi
ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』土屋政雄訳、光文社古典新訳文庫
Virginia Woolf 〝MRS.DALLOWAY〟
1 ヴァージニア・ウルフ 1882~1941
ロンドン生まれ。家族は知的エリートだが複雑で兄弟姉妹が8人いた。文芸評論や翻訳を行う。ケインズを含むケンブリッジの若手文化人と交遊。レナード・ウルフと結婚。病と戦いながら執筆活動。第2次大戦中1941年没。代表作『船出』『夜と昼』『ジェイコブの部屋』『ダロウェイ夫人』『灯台へ』『オーランドー』『自分ひとりの部屋』『波』『歳月』『三ギニー』『幕間』など。
知的エリート階層出身でありつつ、ヴィクトリア朝時代の古い価値観(大英帝国の価値観。男性上位も含む)に対し批判的なまなざしを提供した、フェミニストの先駆的存在と評価されている(松本朗の解説から。本書360頁)。
2 『ダロウェイ夫人』1925年(作者43歳)
時代設定は第1次世界大戦後の1923年6月。場所はロンドン。中産階級(上流の次くらい。日本のいわゆる中流とは違う)のダロウェイ夫人の一日を描く。
(1)主な登場人物
クラリッサ・ダロウェイ:52歳。国会議員のリチャード・ダロウェイの妻。今晩は自宅に著名人を集めてパーティーを開こうとしている。若い頃ピーター・ウォルシュと恋人だったが…
リチャード・ダロウェイ:国会議員。それなりに善良で篤実な保守党政治家。
エリザベス・ダロウェイ:クラリッサの娘。18歳。
ピーター・ウォルシュ:クラリッサのかつての恋人。失恋しインドに渡り数年間を過ごす。このたびロンドンに戻ってきた。大英帝国の上中流階級の俗物たちの欺瞞に対する辛辣な批判者。
サリー・シートン:クラリッサのかつての親友。古いビクトリア朝時代の価値観に対する批判者。
エリー・ヘンダーソン:クラリッサのいとこ。家系はよいが貧しい。
ミス・キルマン:エリザベスの家庭教師。労働者階級出身の職業婦人で、クラリッサへの批判者。
レディ・ブルートン:大英帝国の上流階級の婦人。政治を動かそうとしている。
セプティマス・ウォレン・スミス:事務員。第1次大戦の従軍経験で心を病んでいる。
ルクレーツィア・スミス:セプティマスの妻。イタリア出身。セプティマスの世話を懸命にするが…
エバンズ:セプティマスの戦友。仲がよかったが戦死した。
ホームズ医師:精神科医。
サー・ウィリアム・ブラッドショー医師:高名な精神科医。
ヒュー・ウィットブレッド:クラリッサの昔の友人。今は宮廷で働く。
デイジー:ピーターのインドでの恋人。人妻。
(2)コメント
ロンドンの一日の出来事だが、話の中で登場人物の過去や人間性が明らかにされていく。それぞれの視点から内面(感じることや考えること)が描かれる。
クラリッサは中産階級の女性で、今日のパーティを成功させたい。そこに昔の恋人ピーターが出現し波風を立てる。過去が想起される。サリーも出現。娘エリザベスの家庭教師ミス・キルマンは労働者階級の働く女性で、クラリッサとは価値観が合わない。エリザベスの取り合いをしているとも読める。互いに神を信じているつもりだが、どちらが真のキリスト教徒なのだろうか? やがて総理大臣を含む名士の方々が到着しパーティーが始まる。この話に、大戦で心を病んだセプティマスの話が重なる。セプティマスは親友のエバンズの死を経て心が病んでいる。若妻のルクレーツィアが世話をする。精神科医のホームズもサー・ウィリアム・ブラッドショーも理解がなく何の役にも立たない。そして…(以下はネタバレになるので紹介しない。)
第1次大戦後、大英帝国の繁栄は陰りが見えていると言えよう。戦争の傷跡、インド植民地や国内の労働者の貧しさの問題もある。ビクトリア朝時代の価値観はゆらぎ、新しい世代の価値観が現われるが、未だ主流にはなっていない。上中流階級と働く階級の価値観の相克(特に女性のあり方を巡って)も描かれる。人生を讃える表現がある一方で、人はなぜ生きるのか?という根本的な問いも描き込まれる。国会議員の妻で「いい暮らし」をし人生の成功者に見えるクラリッサ自身にこの問いがある。精神の病に対する医師たちの対応も、排除・隔離の論理であって共生の論理ではない。そこには人間尊重思想(人権思想)ではなく帝国の秩序維持の論理があるのみだ。その欺瞞と非人間性に作者ウルフは気付いて描き込んでいる。ウルフ自身が精神に病を抱えていた。読者は多くのことを考えさせられるはずだ。6月のロンドンの夕景の描写も私には印象的だった。
(イギリス文学)古くは『アーサー王物語』やチョーサー『カンタベリー物語』などもあり、世界史で学習する。ウィリアム・シェイクスピア(1600年頃)は『ハムレット』『ロミオとジュリエット』『リヤ王』『マクベス』『ベニスの商人』『オセロ』『リチャード三世』『アントニーとクレオパトラ』などのほか『真夏の夜の夢』『お気に召すまま』『じゃじゃ馬ならし』『あらし』などもある。18世紀にはスウィフト『ガリバー旅行記』、デフォー『ロビンソン・クルーソー』、19世紀にはワーズワース、コールリッジ、バイロンらロマン派詩人、E・ブロンテ『嵐が丘』、C・ブロンテ『ジェーン・エア』、ディケンズ『デビッド・コパフィールド』『オリバー・ツイスト』『クリスマス・キャロル』、スティーブンソン『宝島』、オスカー・ワイルド『サロメ』『ドリアン・グレイの肖像』、コナン・ドイル(医者でもある)『シャーロック・ホームズの冒険』、ウェルズ『タイムマシン』、20世紀にはクローニン(医者でもある)『人生の途上にて』、モーム『人間の絆』、ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』、ジョイス『ユリシーズ』、ウルフ『灯台へ』、ミルン『くまのプーさん』、オーウェル『1984』、ボンド『くまのパディントン』、クリスティ『オリエント急行の殺人』、現代ではJKローリング『ハリー・ポッター』、カズオ・イシグロ『日の名残り』『私を離さないで』などなど。イギリス文学に学んだ日本人は、北村透谷・坪内逍遥・上田敏・夏目漱石・芥川龍之介・上林暁・中野好夫・福田恒存・荒正人・江藤淳・丸谷才一・小田島雄志をはじめとして、多数。商売の道具としての英語学習にとどまるのではなく、敬意を持って英米文学の魂の深いところまで学んでみたい。