James Setouchi  

 

江川 卓『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』 新潮選書1991年発行

 

1 江川 卓(えがわ たく)

 1927年東京生まれ。1944年一高在学中から独学でロシア語を始める。東大法学部政治学科卒業後1953年頃から現代ソビエト文学の研究を開始。会社勤めを経て、東京工業大学教授となる。著書『現代ソビエト文学の世界』『ドストエフスキー』『謎とき『罪と罰』』『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』『謎とき『白痴』』等。訳書『罪と罰』『貧しき人々』『分身』『地下室の手記』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』等多数。(新潮選書のカバーの著者紹介ほかから)

 

2 『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』

 1991年発行。きわめて面白い。『カラマーゾフの兄弟』は世界最高傑作で何度読んでも面白いし社会の在り方や生き方を考えさせてくれるが、碩学・江川氏の注釈でさらに深く理解し新たに発見することができる。

 

 目次は次の通り:はじめに/Ⅰ 〝カラマーゾフ〟という姓/Ⅱ 黒いキリスト/Ⅲ 好色な人たち/Ⅳ 巡礼歌の旋律/Ⅴ 薔薇と騎士/Ⅵ 3と13の間/Ⅶ 〝蛇〟の季節で/Ⅷ 白いキリスト/Ⅸ 臆病なユダ/Ⅹ 兄弟愛の表裏/ⅩⅠ 心の広さと大きさと/ⅩⅡ 実現しなかった奇跡/ⅩⅢ 逆ユートピア幻想/ⅩⅣ 実在する悪魔/ⅩⅤ 〝カラマーゾフ万歳!〟/『カラマーゾフの兄弟』邦訳一覧/あとがき

 

3 興味深かった点をいくつか(ネタバレを含みます)

 

(1)「カラマーゾフ」という姓は、〝黒塗り〟という意味だ(20頁)。好色、冷酷、残忍、悖徳(はいとく)的、放蕩(ほうとう)の恥辱、堕落の美、マドンナの聖徳とソドムの理想の同居、聖痴愚(せいちぐ)などの特質を持つ(19頁)。「カーラ」を「罰」とする見方も(21頁)。セルビアの民族英雄カラ・ゲオルギイ(父親殺しのゆえに「黒いゲオルギイ」と呼ばれた)を連想させる(25頁)。アレクセイ・カラマーゾフ(アリョーシャ)の名がもしこの響きを背負っているとすれば、彼はロシア皇帝の父である皇帝を暗殺する「黒いキリスト」だということになる(30、50頁)。

 

(2)この作品は、ロシアの民衆に語り継がれた巡礼歌「うるわしのヨセフ」「ラザロの歌」「神の人アレクセイ」を踏まえている(Ⅳ)。巡礼歌の神の人アレクセイは、信仰に生きた人。富裕な貴族の子だが身を隠し神への愛一筋に生きて乞食同然の生活をした。アリョーシャはこれを意識して造形されたとソ連の研究家ヴェトロフスカヤは言う(73頁)。アリョーシャは万人・万物・一切のための赦しを乞い大地に接吻する(78頁)。巡礼歌のラザロ兄弟は、兄は金持ち、弟は乞食だったが、弟の方が天国に行く。弟ラザロとスメルジャコフは言われなき被差別兄弟という共通点を持つ(87頁)。「スメルド」には土百姓のニュアンスもある(91頁)。

 

(3)ドストエフスキーはカトリック嫌いだったが、ゾシマ長老の描き方にカトリックのアッシジのフランチェスコのイメージがある(105頁)。それによってゾシマと大審問官の対照性がきわ立つ(106頁)。では、どうなるのか?アッシジのフランチェスコは清貧だった。それがのちのアリョーシャの造形に生かされるのか(110頁)。カトリック的なゾシマとは違うロシアのアリョーシャ、民衆の中に生きる清貧な神の人アレクセイということになるのか、と私は思った。

 

(4)風景描写の少ない作家だ(130頁)が、スネリギョフ大尉が語る凧あげの風景はどうか。そこは石の傍らだ。「石」はペテロで教会の礎だ。「凧あげの季節」は「ズメイヌイ・セゾン」で「ズメイヌイ」とは「蛇の」の意味だ(136頁)。つまり沢山の蛇(龍)が空中を舞っている、黙示録的な風景なのだ(148頁)。

 

(5)スメルジャコフは出自も特殊だ。聖処女的なリザヴェータから生まれている(161頁)。隣の家のマリヤ・コンドラーチエヴナ家は、去勢派信徒の隠れ家のイメージだ(152頁)。スメルジャコフこそは「白いキリスト」なのだ(158頁)。彼はユダのように死ぬが半狂乱のマリヤ(「白い聖母」)がアリョーシャのもとに真っ先に知らせる。スメルジャコフは「たとえ死後にもせよ、本来のキリストのもとへ復帰しようとした」のかもしれない(184頁)。

 

(6)アリョーシャとグルシェンカの間に「きょうだい」としての実感が生まれた。この二人も本作の大きなテーマ「兄弟―兄弟愛」に結び付けられる(201頁)。ゾシマは(つまりは筆記者であるアリョーシャは)「ユダのためにも祈れ」、自殺者のためにも祈れ、と言う(202頁)。ユダもスメルジャコフも赦す「ヴェリコドゥーシエ」(心の大きさ)の理想がここでは語られている(202頁)。

 

(7)イワンの前に出てきた悪魔とは誰か。イワン自身の分身か(237頁)。作者は、イワンに長い長い「大審問官」を語らせる。それによって作者は、ライプニッツ的な「予定調和」を否定し、「社会主義諸国の未来から現代企業社会への批判まで通ずる予言的な逆ユートピア図を展開してみせた」(256頁)。

 

(8)ドミートリイは高潔な心情を持ち「正義のために無実の犠牲者として滅びる」(288頁)。イワンもまたカチェリーナの献身的な看護により「真実の光明のなかによみがえる」ことも可能なのではないか(299頁)。  

 

 江川卓はドストエフスキー解釈の可能性を述べる。ドミートリイも、イワンも、アリョーシャはもちろん、スメルジャコフも、救済されるのであろうか。それとも…    

 

この本は実に面白い。強くお薦めします。