James Setouchi

 

江川 卓『謎とき『罪と罰』』 新潮選書1986年刊行

 

 江川 卓えがわ たく)

 1927年東京生まれ。1944年一高在学中から独学でロシア語を始める。東大法学部政治学科卒業後1953年頃から現代ソビエト文学の研究を開始。会社勤めを経て、東京工業大学教授となる。著書『現代ソビエト文学の世界』『ドストエフスキー』『謎とき『罪と罰』』『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』『謎とき『白痴』』等。訳書『罪と罰』『貧しき人々』『分身』『地下室の手記』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』等多数。(新潮選書のカバーの著者紹介ほかから)

 

2 『謎とき『罪と罰』』

 1986年刊行。ドストエフスキー『罪と罰』に関する第一人者が、ドストエフスキーの仕掛けた罠を細部に至るまで解説し、ドストエフスキーの真の狙いを考察していく。きわめて面白い。『罪と罰』解釈としても面白いが、当時のロシアの社会や宗教、さらにはキリスト教・ロシア正教の歴史に至るまでの知識を援用しており、非常に勉強になる。かつ、自分がいかに生きるのか? 社会や神をどうとらえればよいのか? を考えさせてくれる。

 

 目次は次の通り:はじめに/Ⅰ 精巧なからくり装置/Ⅱ 666の秘密/Ⅲ パロディとダブル・イメージ/Ⅳ ペテルブルグは地獄の都市/Ⅴ ロジオン・ラスコーリニコフ=割崎英雄/Ⅵ 「ノアの方舟」の行方/Ⅶ 「罰」とは何か/Ⅷ ロシアの魔女/Ⅸ 性の生贄/Ⅹ ソーニャの愛と肉体/ⅩⅠ 万人が滅び去る夢/ⅩⅡ 人間と神と祈り/ⅩⅢ 13の数と「復活」神話/『罪と罰』邦訳一覧/あとがき

 初学者に興味がわくかもしれないことをいくつか紹介する。

 

(1)舞台は1860年代のペテルブルク。ペテルブルクはネヴァ河の河口にピョートル大帝が築いた都で、要塞、教会、国事犯のための監獄、造幣所から作られた、人為的な都市だ。その中心には皇帝・教会権力がある。ラスコーリニコフはその壮大な眺めに違和感を感じる(90頁)。この町は地獄であり宮殿と教会こそサタンの本拠、魔王庁ではないか?(92頁)この壮大なペテルブルクの最下層に暮らすリザヴェータやソーニャら「踏みつけられてじっと我慢している人たち」について「どうしてあの女たちは泣かないんだ? どうしてうめき声をあげないんだ?」とラスコーリニコフは問う。彼女たちにこそ「天国」と「約束の地」が与えられんことを、ラスコーリニコフは(作者ドストエフスキーは)念じていた。(180頁)。

 

(2)物語は、計算すると、1865年7月8日に始まる(273頁、275頁)。それから13日目、スヴィドリガイロフが自殺、ラスコーリニコフは大地に接吻して警察に自首する(270頁)。

 

(3)ロジオン・ロマーヌイッチ・ラスコーリニコフとは、ロシア文字で書くとРодионРоманычРаскодьников。そのイニシャルはPPPで、逆立ちさせると666。これは悪魔の数である(48頁)。その文字通りの意味は「ロジオン」はイロジオン(ギリシア語のヘーロース=英雄)(111頁)。「ロマーヌイッチ」はローマ人シーザーの息子、あるいはロマノフ朝(108頁)、「ラスコーリニコフ」はロシア正教会から分離した人々。彼はアンチクリストの刻印を押され、ロマノフ朝の社会体制に挑戦する英雄であるのかもしれない。

 

(4)『罪と罰』という題名。「罪」は「プレストウプレーニエ」であり「踏み越え」の意味だ。神の掟に背く罪「グレーフ」ではない。ラスコーリニコフは金貸しの老婆の部屋の敷居を踏み越え、人間の掟を踏み越えて、罪を犯す(20頁)。ソーニャは神に対づる罪意識(グレーフ)を持っていたが、ラスコーリニコフは「君も踏み越えたんだ」、僕ら二人は同類だ、と愛情告白をする(23頁)。「罰」は「ナカザーニエ」。ラスコーリニコフにおいては、「人類との断絶感、分裂感」(156頁)であり愛する人を抱擁することもできないという「直接的な感触」(159頁)だった。

 

(4)ラスコーリニコフは、ナポレオンのような非凡人と、その他大勢の凡人に人間を分類する(22頁)。前者は「踏み越え」を行う権利を有し、後者は服従するしかない。これは狂気の思想である。だが、先日ある人が「これからの時代はAI以上の一部の人間と、その他大勢の人間に分かれる」と言っていた。ラスコーリニコフの狂気は、現代の問題でもある。

 

(5)予審判事ポルフィーリイは、ラスコーリニコフを犯人だと最初から睨んでいたが、他方で「大きな心を持て、これから果たすべき偉大なことを前に、怖気づいたのか? …ああいう一歩を踏み出した以上、くじけるな。これはもう正義だ」とラスコーリニコフに言う(291頁)。これは謎めいた言葉である。ポルフィーリイ・ペトローヴィチ(ピョートルの子にして司直)(238頁)は、実はラスコーリニコフに何かを期待していたのか?

 

(6)ソーニャは単なる肉体を持った女ではない。従来定式化されてきた「聖なる娼婦」の枠で語り尽くせるものでもない。ヨハネ黙示録21では殺人者と姦淫を行うものは「新しきエルサレム」に入れない。だが今や殺人者ラスコーリニコフと淫婦ソーニャは並んで座っている。農奴制以降のロシアの、最も無力な代表者であるマルメラードフ家の人々、これらの人々が「新しきエルサレム」に入れるようにすることこそ、ラスコーリニコフが我が身に引き受けた十字架だった(226頁)。

 

(7)1867年4月の朝。復活祭の次々週、マグダラのマリアたちを偲ぶ週(287頁)。シベリアの流刑地で、ラスコーリニコフは、祝福された遊牧民の姿を望見する(279頁)。そこにソーニャが現れる。マグダラのマリアのイメージ(284頁)。ラスコーリニコフは愛によって「復活」した(288頁)。

 

(8)だがラスコーリニコフは、江川卓によれば、いまだ悔恨をしていない(288頁)。ポルフィーリイの不思議な励まし(上記5)は、ラスコーリニコフがシベリア流刑を終えて都に戻った「その後」の活動を教唆しているとも言える。どのような活動を? 民衆と密着した新しい「革命家」としての活動を?(291頁)男女の愛と人間世界への和解は成立したが、この巨大な魔的世界=ロマノフ体制に対して、ラスコーリニコフは「革命家」として「復活」し再び挑戦するのだろうか? 但し老婆殺害とは異なった方法で? 彼に真のキリスト教の福音はついに訪れないのか? ドストエフスキーの真意はいかに?  

 

3 付言 ドストエフスキー『罪と罰』の解釈は実に多く存在する。江川卓は碩学で第一人者だが、もちろん、読者は自分の感じたいように感じてもよい。ドストエフスキーは読者に応じてその姿を現す作家だ。 

この本は実に面白い。強くお薦めします。