James Setouchi 2024.5.20

 ガルシア=マルケス『ガルシア=マルケス中短編傑作選』

   (野谷文昭 訳、河出文庫)

     Gabriel Garcia Marquez        (中南米、コロンビア)

 

1        ガブリエル・ガルシア=マルケス 1927~2014。

 南米コロンビアのカリブ海沿岸に近い内陸の寒村アラカタカに生まれた。アンデス高原の寄宿学校を経て国立ボゴタ大学法学部に進むがドロップアウト。保守派政権による自由派弾圧の下、カリブ海沿岸の古都カルタヘナに移る。新聞記事を書いて生活。ヨーロパに渡りローマやパリで生活。またコロンビアの首都ボゴダやNY,またメキシコでも生活。小説を書く傍ら映画制作にも携わる。代表作は『百年の孤独』『族長の秋』など。『百年の孤独』は世界に中南米文学ブームを爆発的に巻き起こした。1982年ノーベル文学賞。(河出文庫巻末の編訳者解説、および三省堂世界文学大図鑑(ジェイムズ・キャントン他)の記事などを参考にした。)

 

2 『ガルシア=マルケス中短編傑作選』から

 河出文庫のこの本は、ガルシア=マルケスの中短編をほぼ年代順(1961~1981)に配列してある。それぞれにガルシア=マルケスの世界を見せてくれる。舞台はコロンビア沿岸部(そこは熱帯)が多いが、ローマやマドリードが舞台のものもある。いくつか紹介してみよう。(ネタバレあり。)

 

『大佐に手紙は来ない』(1961)

 中編。大佐は若い頃革命軍で活躍し、今は高齢となり独裁政権下で引退している。年金を貰えるはずだが、待てども待てども年金が届かない。息子は独裁政権の暴力的支配の下で命を落とした。大佐夫婦は収入源がなく貧窮している。持ち物を売って食いつなぐ老夫婦。但し、息子の名残とも言える立派な軍鶏を持っている。これは来年正月の闘鶏で使うのだ。それを期待する若者も周辺に少しは存在する。軍鶏が大佐の誇りだ。だが、今は食べ物も生活費もない。軍鶏を売却すれば食べ物が買える。妻は軍鶏を売れという。大佐もその気に一度はなる。だが、それは誇りを売り飛ばすことでもある。・・・大佐はどうすべきか?

 

 同じ時期にゾラ『居酒屋』、藤澤淸造『根津権現裏』なども読んだので、貧乏で窮迫するのは困るな、と本作を読みながら切実な思いをした。現在コロンビアの社会福祉はどうなっているのか、私は知らない。1960年代までは欧米や日本を含め世界で反体制運動が盛んだったが、逆にこれへの抑圧もあった。政治的に閉塞した当時のコロンビアの状況下での作品だと言える。

 

(現代とのつながり)待てども待てども来てくれないのは、キリスト、大佐の年金、恋する人の手紙、就職の採用通知、あるいは・・・? 

 

 待っても来てくれないから、自分から立ち上がるしかない。但し大佐はすでに高齢だ。大切な子も失った。周辺に若者は少しはいるが・・・現代の超高齢社会の平均像だと言える。 

 

『純真なエレンディラと邪悪な祖母の信じがたくも痛ましい物語』(1972)

 中編。面白く読ませる。舞台はコロンビアの沿岸部だろう。金持ちの祖母に仕える少女エレンディラは、不注意で邸宅を火事にしてしまう。祖母は非常にも孫に償いをせよと言い、そのために孫に少女売春をさせる。少女はいやいや売春を始めるが、多くの客がつく。祖母は少女を使って大金持ちになる。ここにウリセスという少年が現われる。少年と少女は心が通う。途中に変遷があるが、最後、ウリセス少年は何度かの試みにより、少女を支配する祖母を殺害、少女は祖母の金を握って彼方へと逃亡、少年は取り残される。

 

 巻末の改題によれば、ウリセスはユリシーズを連想させる。祖母と少女はクレタ島のミノタウロスとアリアドネ、祖母を殺害する少年はテセウスを連想させる。但しギリシア神話は転倒させられている。アマゾンの感想の一つに、祖母は独裁政権、少女は民衆、少年は革命家の暗喩だ、とするのがあった。祖母も少女も少年も一種の特殊能力を使う。これも面白い。特に祖母は眠りながら予言し、一方的に指示を出す。但しそこに少女との応答はない。独裁者は民と対話せず一方的に命令をする。「聞く耳」を持たない独裁政権は力で打倒される。祖母は暴力で殺された。

 

 (現代とのつながり)現代は富裕層高齢者(「祖母」)が利権を独占し貧しい若者(エレンディラ)が苦しみながら働き、またヤングケアラーをしている。若者は精神を支配され従順だが、実は苦しみ、解放されたいと奥底では願っている。恋愛が契機になる。自由を得たい、解放されたい、との願いが爆発する。外部から来た少年(ウリセス)が権力者を暴力で打ち倒す。

 

 これは現代の話でもある。だが革命家(ウリセス)は捕縛される。解放された若者(エレンディラ)はどこへ行くのか。海外か。どこへも行き場所がない、と考えれば、結局ノンポリ「しらけ」世代となる。とりあえず爆発すればいい、アナーキーだ、ロックだ、と叫んだ時代もあったが、今は「祖母」に黙って従っておこう、時々フェスだ、パーティーだ、五輪だ、つまりパンとサーカスで息抜きだ、というのが最近日本の状況かも知れない。

 

『聖女』(1981)

 コロンビア・アンデス山中の田舎の村のマルガリートに奇跡が起きた。昔亡くした愛娘の死体が、腐らず、美しいままだったのだ。これは奇跡だと村の人々は言い、マルガリートは娘の死体をトランクに入れてローマに出かけ、教皇にお目通りし、聖女として認定して貰うことになった。ところが教皇へのお目通りがかなわない。ローマの職員たちは関心を示してくれない。マルガリートはしかしくじけず申請を続ける。・・・

 

 それから二十二年。語り手「私」はローマでマルガリートと再会する。マルガリートはまだ粘り強く待ち続けていたのだった。その時「私」は悟った。「彼こそが聖人なのだ」と。続くラストの一文「・・自らの列聖という・・・大義のために戦いつつ生きてきたのだ。」は、解釈が分かれるだろうか。娘のため・神の栄光のため(利他、大義)ではなく自分のため(利己)だった、とは皮肉であり、人生そのものに対する皮肉を作者は語っているのか、それとも人生というものはそういうものであって、それでも、何かしら尊いと信ずるもののために努力し続けて、最後まで結果が出せないように見えても、それでもその生きざまそれ自体が本当に偉大なのだと作者は言っているのか。

 

(現代とのつながり)努力しても努力しても報われない。それでも人は何かをあきらめつつも努力し続ける・・・