James Setouchi

 

R6.6.5 曽野綾子『ぜったい多数』文春文庫

 

1        曽野綾子(1931~)

 昭和6年東京生まれ。聖心女子大出身。(戦時中一時金沢に疎開。)三浦朱門、山川方夫らと交わり文壇デビュー。カトリック信徒。一時日本財団の理事長も務めた。小説『遠来の客たち』『わが恋の墓標』『二十一歳の父』『ぜったい多数』『幸福という名の不幸』『太郎物語』『至福 現代小人伝』『虚構の家』『神の汚れた手』『この悲しみの世に』『哀歌』、沖縄戦没女学生を扱ったノンフィクション『生贄(いけにえ)の島』、随筆『誰のために愛するか』『私を変えた聖書の言葉』『愛と許しを知る人々』『心に残るパウロの言葉』『夜明けの新聞の匂い』などなど、多数の著作がある。キリスト教信仰に基づく著作が多いが、保守的でシニカルな論も展開する。沖縄集団自決に関しても発言した。

 

2 『ぜったい多数』1965年講談社、1971年角川文庫、1996年文春文庫(文春文庫で読んだ)

 最初に年齢を確認しておく。

 本書が刊行された昭和40年には、曽野綾子は昭和6年生まれだから34歳。夫の三浦朱門は大正15年生まれだから40歳。

 昭和15年生まれの主人公が大学を22歳で出たと計算して本作の舞台設定は昭和37(1962)年。このとき、曽野綾子は31歳、夫の三浦朱門は37歳。主人公・森暁子たちは22歳。なお、今泉助教授は44歳(本文から)。昭和37年は、戦後17年経過で、経済発展の途上。東京五輪(昭和39年)の直前である。東京は都市化が進み郊外(保谷が出てくる)は宅地化が進行。労働組合は健在で、盛り場には歌声喫茶(注1)があった。

 

(登場人物)(ややネタバレ有)

森暁子:広島の三原の歯医者(地方では豊かな家庭)の子。保谷在住。東京西郊の国分寺の私大・神田大学英文科を出るが就職がうまくいかず、偶然出会った大滝正紀の、社員で恋人という立場になる。本編の主人公。

大滝正紀:東京の実業家の子で、歌声喫茶を経営する若手実業家。家庭が複雑で悩みを抱えている。

生瀬弥生:神田大国文科。森暁子の隣人。大学生の早川を恋人とし、同棲を始めるが・・

早川:神田大の院生。弥生の恋人。観念的な問題を追究する。

阿高賢三:神田大の学生。森暁子の隣人。苦労人でさまざまな現実的な問題に対処する。森暁子が好き。

秋山:大滝の経営する渋谷の歌声喫茶「仲間」のアルバイト学生。貧しく苦労してきた。実は重要人物。

バタ屋の老人:「仲間」の客の一人。ホームレス。名前は下村だとあとでわかる。TV(注2)撮影時排除される。立体交差の下に住んでいるが、東京五輪のための都市再開発で追い立てられる運命にある。

今泉正太郎:神田大の助教授。44歳。売れっ子タレント学者で、若者論を語り、TV出演や講演の機会が多い。スポーツカーに乗り明るく振る舞っているが、実は悲惨なフィリピン戦線の生き残りで、大きな傷を負っている。

友江:今泉正太郎行きつけの飲み屋の店員。メザシ料理が上手。結婚して北上に行く。

君島平吉:森暁子の住む保谷のアパート「平和荘」の大家。東京西郊の「発展」で土地を売ってアパートを建てたが、本職は農業(「百姓」)。純朴な人。パチンコが好きで、妻に叱られる。

君島初江:平吉の妻。純朴な田舎の女性だったが、娘の邦子を私立幼稚園にやり上品な家具を揃え「文化的な」生活を始めようと決意する。モデルの表研一に誘惑される。

君島俊男:平吉と初江の子。初江が「上品な」言葉遣いをしつけようとして吃音になる。

佐々木社長:実業家。大滝正紀の母親の不倫相手。

佐々木千香子:佐々木社長の娘。大滝正紀と見合いをする。

表研一:モデルで格好いい青年。純朴な君島初江を誘惑する。

高杉教授:今泉正太郎の軍隊仲間。医師。

矢野:今泉正太郎の軍隊仲間。奄美大島の修道院で神父をしている。パウロ神父。

 

(コメント)

 「ぜったい多数」の名もなく貧しい若者たちが、これからの人生をどう生きようか、を模索する。ここで「ぜったい多数」とはどういう意味か。「ぜったい多数」の語は文春文庫で332、454、455、470、574頁(470頁は「絶対多数」と表記)に出てくる。452~455頁には「白い金魚」の喩えがある。金色ではない白い金魚は非情に棄てられる存在だ。「君たちだって、僕だって、みんな社会からみたら、白い金魚なんだ」「僕なんか、学生と名のつく連中の中のレッキとした庶民さ。ぜったい多数の白い金魚なんだ。」「白い金魚は・・地面の上にあけられちまう・・僕なんかも、その存在をゆるされなくなる・・ぜったい多数は殺されるか、自殺するほかはなくなる。・・」だが、それはあってはならないことのはずだ、と阿高は言う(455頁)。「ぜったい多数」とは、エリートではない、貧しく名もない人々で、社会の中で価値を認められない人々、というほどの意味だろうか。(それが人口の過半数かどうかはここではあいまいでわからないが、重要ではない。)その「ぜったい多数」の社会的に価値がないとみなされがちな人々にも生きる意味があり尊い人生がある、と本作は反転していく。貧しく苦しむ人こそ逆に幸せになる。大工たちの捨てた石が隅のかしら石になる。神は小さい雀までもしっかりと数え上げ、覚えていて下さる。これがキリスト教の強みだ。(注3)

 

(以下大きくネタバレ)

 時代は東京五輪(昭和39年=1964年)の直前で、日本は都市化・大衆消費社会化が進行しつつあった。東京西郊の農家の妻・君島初江は、若い学生たちに刺激を受け、現金を使って家具を揃えおしゃれをして「文化的な」生活を始めようとする。(都心で知り合ったモデルと不倫をしようとする。)子どもに上品な言葉遣いを押しつけようとするが、子どもは吃音になってしまう。「文化的な」暮らしとは何か? お金を使って高価な家具を揃えおしゃれをし「上品な」言葉遣いをすることに対し、作者は懐疑的だ。初江の夫の平吉は今まで通りの百姓の暮らしでいいではないか、と言う。昭和30年代の社会変化と人々の葛藤を本作は描出している。

 

 主人公の森暁子は、田舎に帰って青年商工会議所の仕事をしてお嫁に行くルートに乗るところだったが、偶然大滝正紀と出会い、歌声喫茶で勤務し、様々な人と出会うことに。正社員になってお嫁に行くのが女性の正しい生き方、というわけでもない、という問いが作者にはある。森暁子は男性に対してもしっかり自分の意見を言う。昭和30年代の女学生は恐らく少数エリートなので、割合しっかりしていたのかもしれない。(注2も参照) 

 

 生瀬弥生は大学生の早川と同棲。当時は婚姻届を出さない同棲は、珍しく、社会に衝撃を与えた。弥生は純情な女性で早川への情に引きずられ妊娠するが、あまりにも観念的で非現実的な早川の言動の前に、選択を迫られ、中絶する(450頁)。ここは痛い。早川は俗世では不器用だが「魂の純粋」「本当に深い人生」を有するかも知れない、と生瀬弥生は一方では考える(494~495頁)が、結局は早川と別れる。男女の愛とは何か? 自己愛とどう違うのか? を弥生は問う(498頁)。阿高賢三が寄り添う。

 

 阿高賢三は本当は森暁子が好きだったが、早川と別れ傷ついた生瀬弥生と結婚することを決意。阿高は家事全般に有能(女子よりも)なのも面白い。当時は男女役割分業の意識が高かったが、作者はわざとひっくり返している。(「仲間」の労働者のストライキ仲間同士なのに、当たり前のように女が男に酒をつぐ。森暁子は「わからない。」と感じる。ここでも作者は性別役割分業への違和感を森暁子の心情を借りて表明している。)

 

 秋山は歌声喫茶「仲間」の賃上げ闘争(注4)に敗れ、末期癌が発覚し、奄美大島(注5)の修道院へ。そこで生と死、永遠の生命などについて深く考察し(561、568頁など)死んでいく。

 

 森暁子は大滝正紀に失望し(恋が冷め)、秋山に誘われて奄美大島の修道院付属学校の教師になるために奄美へと旅立つ。森暁子のあらたな人生が始まる。

早川のその後は書いていない。ここが心配だ。作者はどう考えているのだろうか。(続編で、奄美大島で暮らす森暁子と早川が再会する、その時早川は例えば神父になっている、などにしても面白かったのでは。)

 

 大滝正紀は国家公務員エリートの兄(異母兄)から水商売と差別されるなど苦しんでいる。ここには作家の、公務員が偉いわけではない、水商売・客商売だろうが仕事のうちだ、という主張がある、つまり作家には国家公務員コンプレックスがある(と思う。曽野先生ごめんなさい)。大滝には母親(不倫)との関係もある。大滝は結局森暁子と別れ、欺瞞的な人間関係を背負ったまま、同じブルジョワの金持ちの娘と結婚しそうだ。大滝に果たして人間としての覚醒・救いはあるのか? 作者は大滝を見棄てて放り出している。(これも続編で使えばよい。)(注6

 

 本作は、前半は東京の歌声喫茶など当時の若者の風俗を描写している。当時珍しいTV撮影もある。当時若者が自動車を所有している例は少なかっただろうが、青年社長で好感度の高い大滝は、自家用車で森暁子を横浜へとドライブで連れ出す。多くの地方の読者(例えば女学生)にとってはうらやましいシーンだったかもしれない。(そう、ユーミンの歌詞にある中央高速のドライブに憧れるように。)

 

 だが、本作はそれだけの作品ではない。後半、特に末尾近くでは、罪、神、愛、生と死などについても問うている。ここはさすが曽野綾子(カトリック作家)だ。読者の負担になりすぎないようにわずかな言及にとどめているが、時代社会の変化を越えて問われるべきテーマだ。

 

注1 歌声喫茶:新宿や渋谷などにあり、男女が集まって歌を歌う。今のカラオケに似ているが、個室ではなく、店のフロア全体を使って皆で同じ歌を歌う。ロシア民謡なども歌った。左翼の若者の集う場所、いや、地方出身のさみしい若者の集う場所、などと見られた。(本文にある。)

 

注2 TVは昭和34年の皇太子ご成婚、39年の東京五輪で普及したと言われる。

 

注3 ぜったい多数:実は、主人公が大学に入学した昭和33年の4年制大学への進学者は当時男は14.5%、女は2.4%で、男女計では8.6%(文部省の統計から)。本作には貧しい学生アルバイトが出てくるが、当時は4年制大学生は、若者の中では1割のエリート、特に女子学生は40人の1人のエリートだったと言える。大卒の学生自体がエリートだった(特に女子は)と但し書きが必要だろう。当時の大学生は本当は「ぜったい多数」とは言えない。中卒や高卒で働く人の方が多かったのだ。(佐多稲子『機械のなかの青春』を読んでみられたし。少し時代は違うが。)この点、本作は読者層として大学生または大学生になりたい高校生を狙っているのだろう。

 但し当時の大学生は、現代と比べ貧しい。木造アパートの森暁子の部屋は4畳半、生瀬弥生の部屋は3畳だ。トイレは共有で、風呂はない。(銭湯に行くか、大家に借りる。)電話もない(大家に借りる。)アルバイトで安く使われる。親に資産がない。

 令和の現在は、大学生のアパートは、多く鉄筋コンクリートで、広く、部屋にトイレも風呂もついていることが多い。(かつてはトイレは共同便所、風呂は銭湯だった。『神田川』という歌がある。)携帯電話・スマホも各自が持っている。親の資産のおかげだ。(つまり森暁子の世代が頑張って資産を形成した、その孫の世代が今の学生だ。)

 但し令和の大卒は既に少数エリートではない。18歳の大学進学者の割合は高い。では苦労していないかというとそうではない。大学時代ブラックバイトに絡め取られ卒業後も安定した職に就けない人が多い。都会に実家があれば家賃は要らないが地方出身者は家賃が高くて都会の大学に進学しにくい。大学の前に「ホスト募集」の張り紙があるとはどういうことか? と問いかけている人がいたが、その通りだ。今や多くの大学生は決して特権階級ではない。この点では現代の学生こそ「ぜったい多数」=「白い金魚」の状況にあると言えるかも知れない。だが、見よ、高卒の人もいれば高校中退や中卒の人もいる。学校教育から疎外されている人もいる。この現実を見失ってはいけない。

 

→さらに言う。国立大学の学費を値上げするなどと言っているが、ひどい話だ。一部の富裕層しか高度な学びができないとなると、若者の未来をへしおり、ひいては誰かさんの好きな「国力」も衰退する。(R6.7.26付記)

 

注4 歌声喫茶「仲間」ではアルバイターたちが賃上げを要求してストライキを決行しようとするが失敗に終わるというエピソードも絡めてある。社長の大滝と労働者の森暁子の決裂のきっかけにもなる、重要なできごとだ。

 

注5 奄美大島:戦後米軍統治下だったが、昭和28年(1953年)日本に返還。なお、沖縄は昭和47年(1972年)返還だから、本作の舞台(昭和37年)には未返還。

 

注6 大滝正紀、俵研一は都会風のしゃれた二枚目だ。出会って初日に女性に急接近する。女性読者はドキドキしてうれしいのだろうか。私の目にはただの不良の女たらしにしか見えない。対極にあるのが一見さえない秋山だ。秋山こそ最も辛い人生を生きるが、最も深い認識に至る。ここに、人生のパラドックスを描く作者の仕掛けがある。だが、大滝や俵こそもっとひどい目に遭い人生に対する認識を改めるべきであるのに、との思いが残る。遠藤周作(大正12=1923年生まれ=曽野綾子より8歳年上で、満州暮らしも経験、3浪などを経験)ならどう書くだろうか? 作者・曽野綾子は若い頃(恐らくは自他共に許す)美女で、二枚目で不良の三浦朱門と結婚する。「美女は不良がお好き」という格言があるかどうか知らないが、格言通りだ。(曽野先生ごめんなさい。2回目。)

 はじめから多くを与えられずもっと惨めな人生を生きている人に対して、「深い人生だからがまんしなさい」とは、愛情もないし正義でもない。神が必ず介入し報いて下さるとは信仰の言葉だ。だが現世においてできる改革をしてもいいはず。彼女の宗教に関する言葉はよいが、社会・政治に対する発言・批評は、しばしば奇妙である。(もっとも晩年は年を取り夫の介護もされたとか。介護福祉システムのおかげで昔に比べて介護は多少以上楽になった。社会制度を改良することで多くの人が助かっているのは事実だ。)

*所詮通俗小説か? の思いで読み始めたが、結構考えることがあった。悪くはない。一定年代以上の方の方が共感しやすいかも知れない。