James Setouchi

 

2024.6.6 遠藤周作『白い人』『黄色い人』角川文庫

 

1        遠藤周作(1923~1996)

 東京生まれ。父親の仕事の関係で満州の大連で育つ。両親の離婚で母と帰国、神戸に暮らす。旧制灘中に学ぶ。母についで兄と共にカトリック受洗。何度も浪人した後辛うじて慶応の文学部の予科から仏文学科に進学。戦時中だったが入隊直前に終戦。戦後カトリック文学を学びフランス留学。帰国後文化学院の講師などをしながら作家活動。1955年に『白い人』で芥川賞。他に『海と毒薬』『わたしが・棄てた・女』『沈黙』『死海のほとり』『侍』『深い河』など作品多数。『イエスの生涯』『キリストの誕生』はノンフィクション。

 

 人間のあり方を倫理的・宗教的に深く捕らえた作品が多い。戦後の大衆社会を反映してか、大衆受けするユーモア小説の形を取った作品も多い。その中にも深刻なテーマを内包させている。雲谷斎狐狸庵先生を自称し軽妙なエッセイ『狐狸庵閑話』などもある。当時の昭和の大衆社会を批評している。(各種の年譜を参照した。)

 

2 『白い人』

 昭和30年(1955年)『近代文学』に発表、7月に芥川賞受賞。なお、昭和28年に遠藤はフランスから帰国、年末に母親が逝去。29年は『マルキ・ド・サド評伝』を発表。30年が本作。(遠藤周作学会の年譜による。)(昭和30年12月の芥川賞は石原慎太郎『太陽の季節』だった。)

 

 (ネタバレあり)舞台はフランスのリヨン。1944年7月末、ナチスの敗戦前夜、「私」は過去を回想する。「私」はフランス人の父とドイツ人の母の間に生まれた。父は放蕩をしたが母は「私」を厳格な清教徒の教えで育てた。が「私」はあるとき性的サディズムに目覚める。・・大学生になった「私」は、敬虔な神学生のジャックを侮辱するために、ジャックと親しい同級生のマリー・テレーズに辱めを与える。やがてナチスがフランスを占領する日が来た。「私」はナチスのゲシュタポに雇われ拷問に加担する。「私」の前に容疑者としてジャックが現われる。私はジャックを拷問する。「私」は純潔の幻影、ジャックの十字架、基督者、革命家、カント学者たちが未来と歴史に抱く夢想、陶酔を、破壊しようとしていた。闇の中でリヨンは燃えていた。

 

→ジャックは敬虔な神学生。それをいたぶる「私」は悪魔の役回りだ。作家・遠藤周作はサディズムに関心があったのだろうか。だが、ジャックは悪魔の力に屈する前に自死する。それによって悪魔の力を退けたと言える。「私」がジャックの死によって変容する可能性は、ゼロではない、と思いたい。

 (キリスト教は自死を認めないと言うが、追い詰められた挙げ句苦しんで死に至ってしまった者を、キリストは非情に指弾することはない、と私は思っている。)(世界には、あのユダも救われる、という論考がある。)

 

3 『黄色い人』

 昭和30年11月『群像』に発表。

 

 (ネタバレあり)舞台は日本の阪神エリア。昭和8年に赴任してきたデュラン神父は、昭和12年の水害で出会ったキミコと過ちをおかし、教会から追放されるが、ブロウ神父の情けで辛うじて生きながらえている。昭和19年末、スパイ容疑でデュラン老人は官憲に捕らえられそうになるが、恩のあるブロウ神父に罪をなすりつけ官憲に密告する。デュランは医学生・千葉に、ブロウ神父に渡す手記を託し、空襲で死ぬ。同じ頃、医学生・千葉は従妹の糸子と関係を持っていた。糸子には婚約者があるのだが、暗い時代の下、二人は関係を持ち続けていた。千葉はデュランの日記をブロウ神父に届けるべく手紙を書く。ストーリーは整理すると大体このようであるが、その中で、西洋人キリスト教徒の有する罪の感覚が、神なき日本人には欠落しているのではないか? という問いが問われ続ける

 

→社会的に容認されざる男女関係を二組描く。その比較を通して、神信仰と罪の感覚が日本人にはあるのか? を問うている。作家・遠藤周作はこのテーマを生涯追究したと言われる。

 

 が、西洋人と日本人で違いがある、という前提を私は疑う。

(1)西洋人も「世間の目」で誰かを排除するし、日本人も「神も照覧あれ」と言い、善悪を内面化している。

(2)他力浄土門の考えでは念仏の中に罪の自覚がこもっている。キリスト教の救済と阿弥陀如来の救済は根本が同じでは?

(3)キリスト教は各地の文化(信仰や風習)を吸収しながら拡大した。遠藤周作が見ていたキリスト教はフランスの最も硬いカトリック神学だったに違いない。キリスト教は(他の世界宗教もそうだろうが)本当はもっと柔軟だ。