James Setouchi
2024.6.12アンリ・バルビュス『地獄』菅野昭正 訳 Henri Barbusse“ĽEnfer”
1 アンリ・バルビュス(1873~1935)
ゾラ(1840~)とマルロー(1901年生まれ)の間にいる作家。1873年パリ郊外に生まれる。父も文学愛好者。母はイギリス系。パリ大学文学部に学ぶ。官長や書店勤務をしながら詩や小説を書く。1908年『地獄』刊行。第1次大戦では志願兵に。1916年『砲火』でゴンクール賞。1919年『クラルテ』刊行。「クラルテ」運動始まる。「クラルテ」とは明るさの意味。「クラルテ」運動とはクーチュリエやルフェーヴル、またロマン・ロランらと始めた平和・幸福・正義の社会を建設する運動。1927年評伝『イエス』刊行。ここではイエスが労働者の子だったことに注目。同年ソヴィエト旅行。1932年アムステルダムの反戦・反ファシズム世界大会に主席。1935年パリで文化擁護国際作家会議で議長。8月急死。ナチスの政権掌握に対しては危機感を持って社会活動を行ったが、ソ連(スターリン)の暗部については明確に知らなかったのか、計4度のソ連訪問を行った。スペイン内戦や独ソ不可侵条約を目にする前に死去。この意味でも、ゾラ(労働組合を描く)とマルロー(ソ連に期待したが失望)の間にいる作家と言える。(集英社世界文学全集の菅野昭正の解説を参照した。)
2 『地獄』1908年刊行。
「ぼく」がホテルで隣室を覗き見する、というセンセーショナルな設定。そこで行われているのは、少年少女の幼い恋、成人男女の不倫、同性愛、熱烈な愛情交換の果てに結局は通じ合えず孤独な男女、出産、富裕な高齢男性の死、死にゆく老人と司祭の問答、ホテル支配人の盗みなどなどである。食堂で見せる社交的な外面と異なる、密室での人々の赤裸々な姿。そこにも存在する嘘。それらを覗き見し、「ぼく」は人間について考える。また、様々な分野についての考察も書いてある。医学、愛国心と所有権、自然科学、芸術、文学、死、宇宙の広大さとその前での人間存在の意味、デカルトとカントと世界の存在、愛と優しさの区別、などなどについて、あるいは隣室の人物が、あるいは「ぼく」自身が、思弁を展開する。「ぼく」は「きみ」(妻)と慎ましく充実した生活をおくることを願う。町のレストランで有名な作家ヴィリエに遭遇する。何とヴィリエはホテルの壁の穴から隣室を覗く作品を構想していた! だが、それも「ぼく」にとっては「皮相な」「嘘も同然」のものにしか感じられない。劇場では有名な劇作家を見る。「多数の空虚な言葉」「一時限りの軽薄な気晴らし」がパリの空に撒き散らされている。「教会という大きな墓場へもちはこばれるものよりほかには、天国というものはない。生きようとする激情よりほかには、地獄というものはない。/神秘の火というものもない。ぼくは真実を盗んだ。いっさいの真実を盗んだ。聖なるもの、悲劇的なもの、純粋なものも見たが、それも正しく見たのだ。恥ずべきことも見たが、それも正しく見たのだ。・・・」「ぼく」は「この部屋の悲劇を記憶のままにいつまでも保持しておくこと」を決意する。「いっさいはぼくたち自身のなかにある」
3 コメント:
家の文学全集にあったから読んでみた。解説によれば、当時は影響力を持ったが今は忘れられた作家だ、とある。覗き見という仕掛けはセンセーショナルだが、作中で延々と展開される思弁が作者の本当の狙いだろう。今の人には退屈かもしれない。医学、死体の腐敗、天文学などについて(当時の水準ではあるが)かなり詳細に書いている。バルビュスは科学新聞の編集をしていたから科学にある程度詳しかったそうだ(菅野昭正の解説から)。科学主義と無神論の時代の中で、芸術や宗教、また人間の生きる意味をどう考えればよいか? をバルビュスは考えようとしたに違いない。「ぼくたち人間のまわりには無・・しかない」「だが、それはぼくたちの虚無やぼくたちの不幸を意味するのではない」「逆にぼくたちの自己実現や聖化を意味する」と「ぼく」は言う。科学主義と無神論の時代にあってなお「ぼく」という人間は偉大で尊厳だ、と言いたいのだろう。今日で言えば、外的な成果ばかり安易に重視する傾向があるが、対して、人間の内面の充実こそ大切だ、との主張にもなろう。
だが私にはもうひとつ得心がいかない。(ほぼ同時代の森鴎外、内村鑑三、宮沢賢治ら科学者でありつつ宗教や文学を実践した人とどう違うか。)『地獄』は「ぼく」へのこだわりが強く辟易した。具体的な他者と交わり幸福を分かち合う道もあるはずでは? 現代だと一人でネット空間にリアリティを感じているようなものか。もちろん私はコミュニケーション至上主義(昨今流行の)者ではない。世の中にはいろんな人がいていい。一人が好きな人も。内面の充実、大変結構だ。達磨大師は面壁九年の坐禅をしたという。古代インドでは学生期、家産期が終われば林住期、遊行期に移行する。但しバルビュスの「ぼく」はブッディズムではない。見ていたものが「やばい」。
なお愛国心や所有権に異議申し立てをしている箇所がわずかだがある。ここは社会主義やアナキズムにも触れてみたのか。後にバルビュスは社会運動、平和運動などを行う。「ぼく」に徹底的にこだわりさえすればよいのではなく、時代状況の急迫の中で、社会の中での自分を押し出したのか。「ブルジョワ個人主義から社会主義へ」といった図式で説明してしまいたくない気持ちが残る。『クラルテ』を読んでみよう。
なお、作中の男(詩人)が恋人に語る詩劇と、その男と女の話とが、錯綜(溶解)してきて、わかりにくかった。それは「ぼく」の考えでもあるのか。小説の中に登場人物に詩劇を語らせるのはドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」もそうだが、バルビュスの場合わかりにくい。もっとも、主体(主語)をわからないように敢えて溶解させる手法なのかも知れない。