50年前に叔父が連れてきてくれた宮城県牡鹿半島 十八成浜(くぐなりはま)。ここは鳴き砂の砂浜です。いつかまた行きてえなあとつぶやいていたら息子が旅行を計画してくれました。車に乗ってあれこれ昔話をしているうちに仙台、石巻、女川と過ぎて牡鹿半島へ。投稿が前後しちゃいますがこれは8月の旅行
レンズはスーパータクマー105mmF2.8(1962年発売の初期型)このレンズの初期型は最近ウワサの放射線レンズの前のもので名玉だけにセーフで助かった
50年前は中学生でした。その同じ砂浜に奥さんと息子夫婦と孫と旅行に来れるとは。ここは良いビーチなんですよ。今も海の家は1軒もなし。トイレやシャワーは新築になった。鳴き砂はもう鳴かないけどね。11時になるとキッチンカーが来ました
叔父は高校の教員をしながら写真屋さんのお婿さんとなり当時は女川に住んでいました。写真屋の名前は「女川フォト」。たしか近くに備前屋というスーパーがあった。生まれてはじめて所有したカメラは叔父がプレゼントしてくれたミノルタのカッパ。写真の趣味がはじまった記念すべきカメラ
カッパはカバーのストッパーが破損するまで使い込んだ愛機の1号。次がキャノンオートボーイで、これも動作不能になるまで使い込み、いつも同じような写真しか取れない「広角レンズ」の特性にやっと気づき、そこからPentaxのMEへという流れです
支倉常長公が出航した月浦
泊まったのは民宿めぐろさん。料理が最高に旨い
漁船をお持ちのようです。魚よし酒よしムードよし
おお!貴重な資料が置いてある。じっくり拝読させてもらいました。牡鹿半島は狩りの名所だったそうでこのあたりは伊達政宗もよく来ていた記録あり。政宗の孫の時代に生類憐みの令が出たことにより狩りが出来なくなったと書いてある。当時の60歳以上の人口は1%ですと
早起きして民宿の回りを撮影。同じ地名は奥多摩にもありますね
今日も良い天気
翌日はサンファン館へ。伊達政宗が仙台の船大工を動員して建造させたサンファンバティスタ号の図面あり。マスト長30m、全高48m。当時、遭難したスペイン船の船員を保護して謁見した政宗は「世界最大の船はどれくらい大きいのだ」と尋ね、「これくらいです」とスペイン人が答えると「ではそれと同じものをここで造れ」と造らせたのがこの船です。日本には外洋に出る船は当時なかったので、スペイン人に工法を聞きながら日本の船大工が造ってしまったという当時としては世界最大級の帆船。スペイン海軍の戦艦と同じ大きさでちゃんと大砲まで装備されてる。時に1613年、使節団一行は月浦から中継地のメキシコを目指して出航する
資料館には建造時の様子が詳しく解説されています。材料は仙台藩の木で、船大工と大工も仙台藩で集めた職人たち。そしてこの船は太平洋を横切ってメキシコまで行きまた無事に日本に帰ってくる。その後、鎖国政策となり船は不要となってスペインが統治していたフィリピンへ回航され、頑丈な船だったのでスペイン海軍の戦艦として引き渡され、なんと英国海軍との海戦に臨むことになる。すでに世界は英国の時代となっておりスペイン軍には勝ち目は無かったと言われるが、誇り高きスペイン艦隊は降伏を拒否して英国艦隊へ突撃して全滅するのである。その中の1隻がこの船だ。どうして映画化されないのか不思議なほどドラマチックである。この船は簡単には沈まなかったはずだ。日本の職人たちが造った船だからね
この道具は興味深い
こういうふうに使ったらしい
船員たちの食事の様子。食器は木製なんだな。そして三毛猫がいた。オスの三毛猫は難を避け必ず無事に港へ帰れるとされていました。ちなみに英国でも猫は船乗りにとって幸運の動物だったそうで、あちらは黒猫を大事にしたとか
さて俺たちは埼玉へ帰るとしよう
帰り道は常磐道経由で。無事帰宅。良い旅でした