通りすがりの素人様
コメントありがとうございます。
頂いたコメントの中で「唐」からの「新羅」と「倭」の年号強制に対する違いについて書かれていますが、ずっと以前「賀正礼」について書いた中で( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/748756ce83f5c448b28b91146d530f90 )「新羅」は「唐」に軍事援助を要請する代わりに「唐」の制度等を受容せざるを得なかったものであり、「倭国」はそれらを自主的、選択的に受容したと見ました。そのような中に「暦」「年号」があったと見るべきではないかと考えます。
「倭国」の場合は「南朝」より配下の将軍として称号を得ていますが、「絶域」の域外諸国として「柵封」に準ずる立場であったと思われ、純然たる「柵封国」とは(「唐」における「新羅」と「倭」の違いのように)異なり、「暦」「年号」の受容は「倭国側」の任意の範囲であったものと思われ、結果的に最新技術としての「暦」だけを受容することとなったと見ています。
また既に触れたように「宗主国」のものではなく「独自年号」の先行使用例として「高句麗」がありました。
「高句麗」は「北朝」からも「南朝」からも「柵封」されており、しかも「北朝」からの「柵封」が遅れています。逆に言うと彼らにとって重要なものは「北朝」との関係であったと思われます。その証拠に「柵封」を受けるのとほぼ同時期に「南進政策」を展開するようになりますが、それは「北朝」との国境に対する警戒レベルの低下があったと見られます。現に「百済」侵攻後「百済」から訴えを聞いたにも関わらず「北朝」(北魏)はその後も全くこの紛争に関与することなく結果的に「高句麗」の侵攻にお墨付きを与えた形となっています。
このような流れの中においても「高句麗」は「北魏」の年号を使用せず「独自年号」を使用していました。そのことはこの当時「宗主国」から「年号」の使用強制がなかったことを窺わせます。陸続きで国境を接している「北魏」と「高句麗」の間においてさえそうなのですから、はるか海を隔てている「南朝」(劉宋)と「倭」の間にそのような関係があったとは考えなくて良いのではないかと見たわけです。
「北魏」や「劉宋」などにおいてもそうですが「改元」は「王(皇帝)」の代替わりや遷都、瑞祥などにその契機があり、そうであればそれらは個々の国々においても同様の事情が存在したわけであり、「改元」するタイミングについて「宗主国」と違って当然と言うこととなります。そのため「基本」としては「年号」は受容すべき制度としてなじまないものではなかったでしょうか。
「年号」や「暦」などの使用がその王権の絶対性、超越性の確立や確保に有効に機能したことは疑い得ず、その意味からも「倭国」における使用や改元等は「倭国」の事情にもとづく方が有効と思われます。「新王」即位と同時に「改元」するなどにより「新王」への交代が明確になるわけであり、そのことは「新王」支配に有効であったものと思われる訳です。