話はタケシの話に戻す。
タケシは20代ツービートで漫才をやっていたがチョボチョボでヒットしなかった。
当時は大阪の上方漫才、西川ヤスキヨがブームで、東京では萩本欽一と坂上二郎のコント55号、伊東四朗のテンプクトリオやドリフターズが人気。
テレビ界で影の薄くなったタケシを起用し、大雨で中止になる野球中継番組の代替え、フィラーの雨傘番組企画が持ち上がった。当時後楽園球場はドーム化されていなかった。
王選手と長嶋茂雄の属する巨人軍大ブーム、読売日本テレビの野球中継が雨で中止になった場合に流す、いわゆる雨傘番組「天才タケシの元気が出るTV」での起用。売れているタレントなら断るだろうがタケシは、雨傘番組だとしても初めてタケシの名前が番組の冠に付くタイトル、鬼瓦権蔵役だ。
この番組はスタジオメインでロケの映像、話題をどれだけ取り込めるかにポイントがあった。
ひかるはそのロケの部分を請け負ったのである。
しかし毎週雨傘番組を作るが、多少の雨ではブームの巨人軍野球中継の視聴率が良い為中止にしない。
どしゃ降りの雨が降らない限り、タケシの出番は無い。
スタッフは毎週番組を作って編集するが、また流れてお蔵入りだが、使い回しが出来ない為また作る。
当時読売日本テレビの野球中継が絶好調、視聴率が良く雨傘番組だとしてもお金は予定通り値切る事なく全額支払う。
番組作る側からすれば気が抜けてしまうがお金の為だと言い聞かせ頑張るしかない。
そんな最中、タケシがとんでもない事件を起こしてしまう。
バイクで交通事故を起こし、とんでもない顔面に成ってしまったのである。
どうあがいてもタケシの顔はテレビに出せる状態では無い。
しかし初めて番組でタイトルに自分の名前が出たタケシは、何が何でも続行したい強い意志を示した。
雨傘番組が良かったのだろうか、かなりひどかったタケシの顔はお蔵入りし、なかなか放送されなかったのである。
実はこの時ロケーションディレクターをしていたのが、今のタレント テリー伊藤君であった。
大学を出て間もない27歳前後だったと思うが、ど素人で初めての番組作り、色々苦労させられた。
ひかるは当時カメラマン、音響や映像、VTR、編集など150人の部下を持ち統括部長をしていた。
タケシのロケ担当には当時ロケではナンバーワンと言って良いだろう、Mカメラマンを担当させた。