★注意★これは私の勝手な解釈なので、本気で受け止めないでください。
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術の中に渦がある。
カタカムナにも渦がある。
天から授かった渦。
アメノウズメ。
菊理媛は歌が好き。
瀬織津姫様は巫女でシャーマン。
アメノウズメは巫女。
豊玉姫は瀬織津姫様。
豊受大神はアメノウズメ=瀬織津姫様。
菊理媛と瀬織津姫様とアメノウズメは同一神だと感じる。
千葉県の松戸神社の中にある、スサノオノミコトが祀られている場所で、ちょいと神様に訊ねてみた。
「スサノオノミコト様は、ニギハヤヒ様ですか?」と。
すると、それまで全く鳴っていなかった風鈴が、一度だけチリンとハッキリと鳴ったのだ。
それが神様からの答えだと思ったのだが、確信を得たくてもう一度同じ質問を投げてみたけれど、何も起こらなかった。
風の時代の神様はシナツヒコノカミとシナトベノカミ。
シナツヒコ=スサノオ=ニギハヤヒ
シナトベ=瀬織津姫様
2024年のいつだったかは思い出せないのだが、朝目覚める直前に「ニギハヤヒ」という名前が深緑色の紙に白い明朝体で出てきた。
その頃はまだ、神様のことをあまり知らず、よくわかっていなかったのだが、そこから色々と調べ、最近頭が混乱しているので、一旦整理してみる。
ニギハヤヒ=イザナギノミコト
ニギハヤヒ=タケミナカタ
ニギハヤヒ=恵比寿さま
ニギハヤヒ=事代主神
ニギハヤヒ=大物主
ニギハヤヒ=大山咋神
ニギハヤヒ=大綿津見神
玉依姫=瀬織津姫
品川神社に祀られている白龍神社は宗像三女神のタギツヒメ。タギツヒメの左横に大国主さまが祀られている。
宗像三女神は市杵島姫、タギツヒメ、タギリヒメ。
市杵島姫は瀬織津姫様
タギツヒメは瀬織津姫様
タギリヒメは菊理姫…なのか?
いずれも同一神と言われている。
実は宗像三女神は存在しないのではないのだろうか?瀬織津姫様を隠すためのカモフラージュなのだろうか?
品川神社のタギツヒメの横にいるのは大国主さま。大国主さま=ニギハヤヒということなのか?
品川神社の近くにある、荏原神社の御祭神はタカオカミノカミ。
タカオカミノカミ=瀬織津姫様
荏原神社の鳥居の横に恵比寿さまがいる。
恵比寿さま=ニギハヤヒ
諏訪大社は諏訪湖を挟んで、上社・下社に分かれている。まるで天の川のように織姫と彦星で分かれている。
スサノオ=ニギハヤヒか?
2024年の8月8日に私の人生が大きく動き始め、9月から突如として三峯神社から始まった、神社巡りの旅。
それからほぼ毎週末、各地の神社に祈りの旅に行っている。
半年の間に3回、三峯神社に行ったった。
神様とのつながりがある方々のYouTube動画から、自分の中での謎解きが少し進んだので、ここに記しておく。
瀬織津姫様が祀られている神社に呼ばれたときに、御神水に触れたり、購入しないで帰ると、「もう一度行かなくちゃ!呼ばれてる!!」
という気持ちになる。
多分、御神水で自信を浄化をしなさいと言われているのだろうと、勝手に解釈しているがどうだろうか。
🟩卑弥呼は瀬織津姫様なのか?
👉️卑弥呼とは、日の神子のことであり、すなわち天照大御神様のこと。
そして天照大御神様は瀬織津姫様のことである。
邪馬台国は大分県の国東半島にあったということ。
諏訪大社の建御名方命(タケミナカタノミコト)はニギハヤヒで、八坂刀売神(やさかとめのかみ)は瀬織津姫様。
イザナギノミコトはニギハヤヒで、イザナミノミコトが瀬織津姫様。
私が一番好きな伊勢の伊雑宮に祀られているのは、瀬織津姫様。
名前を封印されてしまい、御祭神の名前は違うけれど、私が呼ばれてると感じる神社には瀬織津姫様が祀られていることが多いことに気づいた。
過去世で瀬織津姫様につかえていたことがあるのだろうか。
三峯神社から神社巡りの旅が始まったのは、瀬織津姫様に呼ばれたからなのだろうか。
マグニチュード8.8.
千葉県の私が住んでいるところ震度5。
千葉県北西部、成田市や香取市は震度6弱。
メール、新着メールの問い合わせしないと、受信できない。
電話もつながらない。
地震怖い…。
明治と大正初期生まれの利用者さんは、我慢強い人が多かった。
喘息でヒューヒュー言いながら肩呼吸をしていても、「全然、苦しくないよ~。」とニッコリ笑ったり、高熱を出していても、「大丈夫よ。」と言って、決して弱音を吐いたりしなかった。
苦しかったら我慢しないで言ってね、と言っても「うん。」と笑って頷くだけで、自分からは何も訴えたりはしない。
その姿を見て、根性無しで直ぐに弱音を吐いてしまう自分自身を情けなく思い、日々反省をしていた。
そんな人達がいる一方で、ワガママ言い放題のばあちゃんもいた。
ヤキモチ妬きで、自分を一番に構ってもらえないと、気が狂ったかのようにナースコールを押し続け、終いには泣く。
他の職員は、そういう人をよく気に掛けていたが、何も言わない大人しい人の事は、少しおろそかにしていたようにも思える。
こんな言い方は良くないのかもしれないけれど、泣いたり、怒ったり、不満を人にぶつけられる人は少し位放っておいたって構わないと思う。発散出来ていれば、少しはストレスも解消されているのだから。
もっと注意をすべき所は、何も不満を口にしない人の心の中なのに、そこを無視されている感じがして私は非常に悲しく感じていた。
ある日、「この間インフルエンザの予防接種をしたから。」と言って、入浴を拒否した入所者さんがいた。
その人は誰とも話もせず、自分の内にこもってしまう人で、自分の髪の毛をよく抜いてしまう癖のある人だった。
誰がなんと言っても入浴をしようとはせず、二週間以上はその状態が続いていた。
どうしたら良いのだろうか、と無い頭でずっと考えていたが、私には結局どうすることも出来なかった。
そんな時に救世主が現れた。私が第二の母と慕っていた人が、その人をお風呂場まで連れて来てくれたのだ。私は嬉しくて泣きそうになった。
やっぱり、利用者さんはちゃんと分かっているのだ。自分の事をちゃんと見ていてくれる人かどうか。
お風呂に入らないと言って、小さな抵抗をして、やっと入浴してくれて…他の人には大した事はないように思える事なのかもしれないが、私の中では物凄く大きな出来事だった。
「あぁ、良かった。」のたった一言で終わらせられない。
第二の母に、「やっぱり、○○さんはスゴイよ!」と言ったら、「大したことないわよ。」と言われた。
さらりとこなして見せてくれる、母はやっぱりスゴイのだ。仕事中に嬉しくて泣きそうになったのは、後にも先にもあれが最初で最後だった。
18~22歳までの間、私は汗だくになりながら、介護の仕事をしていた。
元々、この仕事に従事したいと考えていた訳ではなく、当時、プー太郎だった私は母に急かされて、仕方なく求人広告を見て仕事を探していたら、たまたま家の近くにあった長期療養型の病院の介護助手の募集が出ていたので、それを見て「じいちゃん、ばあちゃん好きだし…んじゃ、ちょっくら行ってくるか。」と軽い気持ちで履歴書を書いて持って行ったのが最初だった。
「絶対に人と接しない仕事が良い。」とずっと考えていた私は、何の因果か、こうして人と密着する仕事を始めることになったのだった。
これが、対人恐怖症であまり人の目を見て話をすることも出来ず、昔から母に「あんたは、蚊の鳴くような声だねぇ。」と言われ、自分の小さな声にコンプレックスを持っていて、人と話をすることが苦痛だった私が迎えた、人生最大の転機だった。
長期療養型の病院でする仕事と言えば、排泄介助に清拭と入浴介助と食事介助と、シーツ交換と環境整備と、吸引ビンの洗浄や、ポータブルトイレの洗浄、トランスに(患者さんを抱っこして車椅子やベッドに移動させること)、リハビリ室や検査室への患者さんの送迎や、洗濯やその他諸々の雑用だった。
仕事はハードで、一階から三階までの階段を日に何度も往復する事もあり、体はしんどかったが、じいちゃん、ばあちゃんは可愛いし、結構楽しく過ごしていた。
どこにでもいるとは思うが、職場にはやっぱり良い人ばかりがいる訳でもなく、私も嫌な事をされたりもした。
最初は何も言わずに黙って我慢していたのだが、ある時、熱湯消毒をしてから洗濯をしたものを、屋上に干していたら、干し方が悪いと全部床に放り投げられてしまった事があった。
そこで堪忍袋の緒が切れてしまった私は、そのまま何も言わずに病棟へ戻り、皆に「あの人、頭おかしいんじゃないのっ!?」と興奮しながら訴えた。
わざわざ熱湯消毒した洗濯物をバイ菌だらけの床にぶちまけられ、怒りを抑えられなくなった私は、その日からその人とは口を聞かなくなった。
向こうはどうして私が、口を聞いてくれないのだろうかと、他の人に相談をしていたようだったが、事情を知っている人は、笑いを堪えながら、「さぁ、どうしてなのかしらねぇ。」と答えていたと言う。鈍感な人なので、自分が人にした事を全然悪いことだとは、思っていなかったのだ。
それまでは大人しく温厚な高校生で通していた私だが、それを境に毒づく様になり、嫌な人に対してはとことん冷たくなった。
患者さんに手を上げたり、「汚いねぇ。」と言いながらオムツ交換をしたり、仕事はしないのに、口ばかり達者な人間に優しくする必要はないと判断したからだ。
介護の仕事をしているからといっても、その人が必ずしも良い人だとは限らない。他の職場にはない独特の雰囲気があったりするから、かえって陰湿な世界だったりもする。(他の所はどうだか知らないが、私がいた病院ではそうだった。)
仕事中にイライラする事も多かったが、そんな時はある病室へ行き、心を和ませてもらった。
「ねぇ、とうちゃん。あんぱんと私、どっちが好き?」
「う~ん、オレはねぇちゃんが好きだぁ。」
「ホント?ウソでも嬉しいよ。」
明治生まれのじいちゃんは、御飯はなかなか食べなかったが、甘いものは大好きでよく食べていた。
たまに、私よりもあんぱんが好きだとも言われたが、それでも憎めず、愛おしくて仕方がなかった。
白内障で目も見えず、ガリガリで体の自由も利かず、寝たきりだったけれど、それでも皆、そのじいちゃんが好きだった。
高校卒業と同時に、市外の老健に就職が決まった私は病院を退職して家を出た。
その後、じいちゃんが亡くなったと一緒に仕事をしていた人から教えてもらった。
今でもそのじいちゃんを思い出すと、心が癒される。もう一度、あの可愛い声を聞きたいな。
自分の都合の悪いものに対しては、どうしても目を背けてしまいがちだけれど、ちゃんと自分のその目で、現実を見据えなければならない時がある。
頭にモヤがかかり、瞬きでさえ煩わしいと感じても、逃げたいなんてそんなことは言っていられない。
進むべき道を見失って、途中で軌道修正するべきかの判断も出来ず、ただ呆然と立ちすくむことしか出来なくても、それも必要な時間なのだと自分に言い聞かせれば、少しは自分を慰められる。
徐徐に一歩ずつしか歩んで行けない歯痒さを感じても、猛スピードで進んで軌道修正が出来ない場所まで行ってしまうよりマシだと思えばいいのだ。
作戦会議と称して、一人でボーッとする時間は決して無駄な時間ではない。
逃避することで、自分の心を休ませることが出来るのであれば、それはそれで良いのだと私は思う。
ただ、前だけを向いて歩けば良いというものでもなく、状況によっては、何度も後方を確認することも必要なのだ。
後悔して反省をするからこそ、次に進むべき道は拓かれる。
と、日々自分に苦しい言い訳をしながら私は生きている。