大石 内蔵助 | 元祖!ジェイク鈴木回想録

元祖!ジェイク鈴木回想録

私の記憶や記録とともに〝あの頃〟にレイドバックしてみませんか?

 
 
 例えば、いきなし〝大石 内蔵助〟と云われたり、読んだりした時に、皆様の脳裏には一体どんな顔や容姿や声が想い浮かびます・・?

 私の場合は長い間、俳優の江守 徹さんだった。

 っちゅうのは、私にとって初めての『忠臣蔵』を映像化した作品が、1975年のNHK大河ドラマ『元禄太平記』だったからだろう。中学1年の終わりから2年にかけての頃だったな。

 それ以前、小学生の頃に漫画『のらくろ』版『忠臣蔵』で、モール中隊長が演じた内蔵助を観てはいるけど、モール中隊長はやっぱし(テリアっちゅう種類の)犬なので・・。(笑)
役名も大石 内蔵助ではなく大石 良雄だったような・・。(※戦前は、内蔵助よりも、良雄の方が通り名として一般的だったの哉?)
 尚、吉良 上野介はブル連隊長で、のらくろは大高 源吾。

 猛犬連隊はともかく、大石 内蔵助=江守 徹さんなんちゅうのは、要するに〝刷り込み〟なんだよな・・、あ、〝刷り込まれ〟か。(笑)
即ち、卵からふ化したばっかしの鳥のヒナが、生まれて初めて観た動くものを親だと思ってしまうように、映像世代の我々も、実際には会った事も観た事もない歴史上の人物や、架空の人物の顔や容姿や声を、実際に観たTVドラマや映画で、より強い印象を受けた役者さんの実像に重ね合わせてしまう・・。

 それは、そのTVドラマや映画が放映や上映されていた年代に依るため、世代的な偏りを示す。
例えば源 義経なら、タッキー辺りがごく最近の世間一般的な最大公約数なんだろうけれども、他にも志垣 太郎さんだとか、天海 祐希さんだとか(笑)、中には既に半世紀近い時を経ているのに、今だに尾上 菊之助さんが刷り込まれたままの皆様も益々ご健勝のご様子で。

 また、その選択は当然、その人の経験や感覚にも委ねられる。
この稿は2005年12月14日、このブログに記した拙稿「VERY BEST OF 忠臣蔵」のリメイクだが、その時点でもまだ私の大石 内蔵助は江守さんだった。
ところが最近は、それよりも前の2004年12月28日に、フジテレビの『徳川綱吉 イヌと呼ばれた男』で観ていた堤 真一さんの顔が想い浮かぶ・・。

 何故か?

 考えた。
2005年から今までの間に変わっている事・・、それは私自身の大石 内蔵助観であり、また誠にささやかながらの歴史観では?

 前世紀は司馬 遼太郎氏の著作をこよなく愛読していた。氏の作品は暖かく、我々を歴史エンターテイメントの世界に誘う。
斎藤 道三の京都に残してきた前妻、お万阿御寮人が、美濃の国盗りに励む道三に自らの恥毛を送って寄越した・・、なんちゅう『国盗り物語』にある件りを、中学1年の頃に学習塾の机の下で読んで、ドキドキさせられた記憶があるが、果たしてそれは事実なのか?否か? 今でも美濃の常在寺辺りに、その恥毛が遺っていたら、それはそれで非常におもしろいが。

 今世紀に入ってからは特に井沢 元彦氏の著作を愛読している。氏の作品はクール & ドライに、我々を歴史的事実の世界に誘う。
『天正十二年のクローディアス』の冒頭にこんな件りがある。
「実際に起こった歴史上の事件を赤穂事件と呼び、それを演劇化したものを忠臣蔵と呼ぶわけだ。事実と、脚色された虚構、当然2つは別のものだ。それを峻別しない限り歴史の真相は見えてこない。」
 これだ。

 事実や実態への興味や関心が増しているが故に、脚色された虚構であるはずの演劇にも可能な限り、それを求めている・・。

 大石 内蔵助に関する事実・・、否、現在の私なりの勝手なイメージに過ぎないのかも知れないが、先ず、カネを持ってなさそう・・。(笑)
吉良方の目を眩ますために京都で遊興三昧に耽るのは無論、討入資金からの経費であり、自らのポケット・マネーでは遊べない甲斐性ナシどころか、むしろマイホーム・パパで、しかも子煩悩・・。
この様な如何にも現実的なファクターを重ねると、私よりも年齢が上の江守さんよりも、まさに現在、子育ての渦中にあり、頬がこけた堤 真一さんの精悍な容姿に落ち着く。
カネ、資金、経費、マイ・ホーム・・、ンな事には当然、無頓着で、無邪気に『のらくろ』を読んでいた頃の私と、今の私もまた当然、異なるワケで。

 それと、江守さんと云えば・・、やっぱし黒田 官兵衛だろう!
これもまた1973年のNHK大河ドラマ『国盗り物語』からの〝刷り込まれ〟だが、現在でも江守さん以外の官兵衛は、官兵衛に観えん。
江守さんには海原 幽山もあるけど、TVで江守さんを拝見した時に真っ先に想い浮かぶ名前は、やっぱし「官兵衛!」だ。実年齢よりも上の秀吉を演じていたために(?)、やたら威厳を増した火野 正平さんの熱演で!(笑)
その江守さんの内蔵助が「南部坂雪の別れ」で対面した瑤泉院は松坂 慶子さんだったようだが、まったく印象がない。松坂 慶子さんと云えば、やっぱし「お濃!」だからだろう・・、こちらは高橋 英樹さんの太い声で。(笑)

 要するに、発端は1973年とか1975年とか、小学校高学年から中学にかけて、歴史なんぞにも多少なりとも興味を持ち始めていて、多感でもあった時期に集約されているものの、少しは大人にも近付いているワケだね・・、私も。



※初稿:「VERY BEST OF 忠臣蔵」2005年12月14日
※文中敬称略:歴史上の人物