鉄道100年改・後編 | 元祖!ジェイク鈴木回想録

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私の記憶や記録とともに〝あの頃〟にレイドバックしてみませんか?

 
 それでも私はEF65P型電気機関車の側面には2本、20系寝台客車には3本ある細いクリームいろの帯を、面相筆と定規を使ってより真っ直ぐによりきれいに描いた。

 実はこのブルー・トレインこそ、みちるが好きな列車だったんだけど、それをわざわざ選んだ理由には、そこに「どーだい!?」みたいなツッパリがあったんだろうね。
小学校5年、6年時のやつの出席番号は私が好きだった4で、私はやつが好きだった9だったんだけど、錯綜していたお互いの好みに敢えて向かっていこうとしていたのかどうか、その辺りの児童心理はよく解らん。(笑)

 小学校の授業とはまったく関係がなく、お互いに自宅でこそこそ制作していたため当日、横須賀駅に掲示されるまでは、お互いに何を描いているのかさえ知らなかった。
「内緒にしておこうぜ?」みたいな取り決めが、やつのほうから持ち掛けられていたような気もする。
そして「やつには絶対負けるまいっ!」みたいな気概は、やつのほうこそ強かったと思われるものの、私だって付き合いで参加したような生半可さではなく、やっぱし「どーだい!?」とか云ってやりたかったような・・。
 つまり、いちおう戦う気構えくらいは出来上がっていたのさ。

 1972年10月14日・・、100年めの鉄道記念日に、やつの作品も私の作品も国鉄横須賀駅のコンコースに貼り出された。
出展総数は100点くらいだったけど、やつと私以外の作品の記憶はまったくない。
評価はふたりとも秀作か何かで同等で、当時はまだ多少は羽振りが良かった日本国有鉄道から、スケッチ・ブックやら何やら相当豪勢な賞品を頂いたんだけど・・、そんなことよりも、やつの作品を観たときの衝動・・、否、衝撃・・、否、否、えーと何だっけ?(笑)、驚愕だけが、いまでもしっかり残っている!

 やつのその作品は、私が好きなキハ181系ディーゼル特急〝つばさ〟だった。

 やつもまた「どーだい!?」って、ツッパッてきたわけさ!
私の〝出雲〟は夕方、東京を出発したばっかしの下り列車なので、車体もまだきれいで、「さあ!行くぞ!」みたいな雰囲気をいちおう考慮したつもりではある。
ところが、やつのは雪国から遠路はるばる疾駆して、いままさに終点の上野駅に到着寸前の上り列車で、列車の前面に雪がたくさん付着しているのだ。

 冬場に雪国から上京して来る列車の前面には、列車の速度で冷やされた雪がそのまま溶けずに上野駅まで到着することがあり、豪雪地域にお住まいの皆さまには申し訳ないんだけど、雪が少ない横須賀くんだりのガキどもにしてみれば、そんな写真が撮影できると「雪化粧つばさ」とか「雪化粧あけぼの」とか呼んで、それはそれは非常にもの珍しく、それはそれは非常にかっこいいものと認識されていたのだから、やつにはその時点でもう既に1本とられていたわけだ。
 何たって、やつはやつ自身が感動した、その事実をそのまま素直に描いていたんだからね!

 その絵はたぶん、やつ自身が上野駅の地下ホームで撮影した「雪化粧つばさ」から起こしたと思われるんだけど、私のような他人が描いた絵からの模写なんぞとの最大の違いは、自ら撮影した写真には、そのモチーフを観たときの素直な感動が記録されているところにある。

 しかも、恐らく薄暗い上野駅の地下ホームなんぞじゃあ絵にならねーと判断したのだろう。
何しろ横位置にした画用紙のタテいっぱいにキハ181系の前面が描かれているため僅かにしか残っていない背景を、木々の緑や茶色で埋めて、雪国を走っていて当たり前の〝つばさ〟ではなく、かと云って暗い上野駅の地下ホームなんぞで休んでいる〝つばさ〟でもなく、雪国から遠路はるばる雪がない地方までやって来つつある物語・・、もっと云ってしまえば、当時の日本国有鉄道の〝力〟さえ醸し出していたわけさ!

 その大胆で迫力満点の構図や、もちろん定規なんぞは使わずに、ざくざくざくざくと一気に描き上げられた筆遣い(:タッチ)は、電気モーターでスマートに動く電車や電気機関車と違って、ガソリン・エンジンで力強く走行する気動車(:ディーゼル・カー)特急独特の力感や息づかいまで見事に表現していた。

 また雪の白、気動車ならではの排気の灰色、こだま型151系特急型電車と同じ国鉄標準特急車両色の赤とクリームいろ、さらに僅かな緑や茶色の配分も申し分がなく、しかも!その僅かながらの背景色の緑と特急車両の赤は補色関係なんだから、こちらに向けて描かれた列車を前へ押し出す効果もある。
もっとも小学校5年生のガキにそんな知識があったとは思えないけど、天才なんちゅう生きもんは元々、知識や技術なんぞよりも先に感性が優れていたりするものなのだ。
 長嶋 茂雄やジミ・ヘンドリックスがそうだろ?

 それこそ美術学士から云わせて頂ければ、こんな作品が私のチンケな模写なんぞと同等であるはずもなく、特賞でなかったのは主催した団体のその後の衰退から窺える観る目のなさよりも、恐らく主催者側に属していたやつの父親の慎み深さからだろう。
横峯 さくらの父親なんぞとはエライ違いだぜ!
 そして、その息子はその父親の仕事を描いていたのだ・・。

 バック・スクリーンどころか、スコア・ボードを完全に越えられていたぜ!!!


※初出:2005年10月14日「鉄道100年」より改編
※文中敬称略