初打席初本塁打 | 元祖!ジェイク鈴木回想録

元祖!ジェイク鈴木回想録

私の記憶や記録とともに〝あの頃〟にレイドバックしてみませんか?

 
 父親が1995年に自費出版した『昭和の子ども』に依ると、
 父親もまた、小学校低学年の頃に親に学校まで忘れ物を取りに行かされたらしい

 ちなみにこの著書は昭和5年に生まれて、弱冠15歳のときに、
 第二次世界大戦と終戦を体験した父親の類い希な記憶力に依る名著なのだが、
 残念なことに一般書店などでは販売されていない
 横須賀市内の図書館と国会図書館には置いてあるらしいけど・・

 ぼくもまた、小学校低学年の頃に親に学校まで届け忘れた物を届けに行かされた
 その品物が何か定かではないが、行き先が給食室だったことだけは確かだ

 この辺りの記憶力が父親のほうが、ぼくなんかよりもずっと優れている
 戦時中にあった何らかの記念式典に於ける校長先生の一挙手一投足まで、
 克明に記憶しているんだから・・

 行き先の小学校は父親もぼくも同じ、今は無き横須賀市立坂本小学校である
 この小学校は何年か前に横須賀市で初めて廃校になってしまった・・

 当時、父親が住んでいた家は、つい最近まで鈴木家の本家だった家で、
 いまのぼくの実家よりも200~300mほど小学校に近い
 実家から小学校までは、小学校低学年の足で20分くらいはかかったから、
 1.2~1.5kmほどだろうか
 父親とぼくの間には約30年ほどの時の隔たりがあるものの、
 同じように情けナイ心持ちで、同じようにとぼとぼとぼとぼ歩いていた、
 道のりもコースもたぶん同じようなものだったのだろう(笑)

 父親の忘れ物は、せがんで買ってもらったばっかしの高価な外套だった
 ぼくのほうは何だか憶えていないけど、給食室に用があったのだから、
 給食当番用の白衣か何かだったのかも知れない

 父親のほうは外套なのだから、当然、冬だ
 ぼくのほうは何となくだけど、ぼくが3年生のときに建立された、
 新校舎の建設が始まっていたような景色の記憶があるため、
 1年生ではなく、2年生の秋から冬にかけての夕刻ではなかったかと思われる

 当時の坂本小学校の校舎配置は、
 むかしの城や寺のように、狭い敷地の中に幾多の建物が建ち並び、
 それらを小さな校舎や渡り廊下で繋いでいた
 メインの鉄筋校舎は3階建てだったが、それ以外は2階建てか平屋建てである
 2年生の下駄箱は鉄筋校舎の1階にあり目的の給食室まではかなり遠い

 当然、そんな時刻に小学校が営業しているわけもなく、人影もなく、
 鉄筋校舎以外は父親が在校していた当時からの古い建物だ
 ぼくは上履きに履き替えて、講堂わきの暗い廊下から石炭庫の前を通り、
 校長室の手前にあった2段の階段を上がった
 ここからは右手に校長室と放送室、左手に視聴覚室がある、
 歩くと床がガタピシ鳴るクランク状の廊下がある古い校舎だ
(この辺りの記述を『昭和の子ども』ふうにしてみた・笑)

 放送室の先のクランクの最初の角を右に曲がると、
 左手に2階の音楽室(と、もうひとつあった部屋は忘れた)に上がる、
『名探偵コナン』にでも出て来そうな古い洋館ふうの階段があり、
 その階段の袂を左に曲がったところに校庭に出られる昇降口がある
 外で何人かの4年生が野球をしているのが見えた

 前にも記したと思うけど、小学校低学年の頃なんて、
 ぼくには友だちなんかひとりもなく、暗くて嫌なやつの絶頂だったわけで、
 そんな2つぐらい上の連中にはイジメの格好の餌食になってしまう
 目を合わさないようにそそくさと校長室の棟から、
 給食室や図書室がある棟に渡れる長い渡り廊下に出た
 その渡り廊下は地面にコンクリートを敷いて屋根を付けただけなので、
 そこを歩いていれば、校庭からもまる見えなんだけどね

 給食室に着き、給食のおばさんに何かを渡した
 おばさんに履き物のことで何かを云われたような気もするため、
 ひょっとしたら下履きのまま校庭から直接渡り廊下に入ると云う、
 土足厳禁を犯していたのかな?とも思ったものの、
 ちゃんと上履きに履き替えて、校舎内から辿り着いたことも間違いない

 帰りは反対に長い渡り廊下から校長室の棟に入る
 校庭の4年生たちは軟式テニスのボールを竹竿で打つ形式の野球をしていた
 それはやや高度な形式であり、通常は軟式テニスのボールを平手で打つ・・
 なお、どちらの形式でもグローブは使用しない

 今度はクランクの廊下を曲がる手前に昇降口がある
 そこに、まさかと云うか、やっぱしと云うか、4年生が待ち構えていた

“おい”

 ひええっ
“せえてやる”(入れてやる、の意味・・ 言語の変形の由来は不明)
 へっ?

 そのひとたちが4年生だったことを憶えているのは、その中に、
 顔に漆か何かの被れあとがあるNさんという駄菓子屋の息子がいたからだ
 Nさんは2つ上・・ つまりぼくが2年生なら4年生ってわけだ

 当時のその程度の野球では、
 各チームのメンバーが9人ずつ揃うことなんか、まず絶対あり得ない
 1チームせいぜい4~5人で、キャッチャーは攻撃側が受け持ったりする
(そのようなときは当然、盗塁なしのルールが適用される)
 ひとりでも数多くのメンバーで、本来に近い形式でやりたいのは、
 当時の皆んなの理想でもあった

“でも・・ でもお・・”

 そんなときの当時のぼくは走って逃げたりするわけでもなく、
“おーしっ!やったろーじゃねえか”なんていう元気はもっと当然なく、
 小賢しく何とか屁理屈をこねくり廻すのが常だった

 だいたい、平手で打つ形式でさえ本当にやったことがなかったし、
 だいたい、あんな小さなボールにあんな細い竹竿を当てるなんて、
 当時のぼくとしては神ワザに近い偉業にすら感じられていた
 でも、デキナイとかは決して云わないのが小賢しいところ・・

“上履きだから!”

 ところが、それは実は問題ではなかった
 通常、上履きなんてものは毎日持って帰るものではなかったが、
 その日はたまたま母親に“帰りに上履き持って帰っておいで、洗うから”
 と、云われていた日だった(ような気がする)
 故に多少汚れても何の差し支えもナイ・・

 そこから一転してバッター・ボックスに向かうまでの経緯は、
 何故か完全に記憶が欠落している
 ただ、4年生たちが意外にも親切だったのか、或いはオダテに乗ったのか、
 何か物品で買収されたのか・・(本当に嫌なやつだな!笑)
 何の抵抗もなくそこまで辿り着けたことだけは確かだ

 バットじゃなくて竹竿を、それもまた何の抵抗もなく左手を上に握った
 ほかの皆んなはほとんど全員右バッター・ボックスなのに、
 そんなことも露知らず、ぼくは左バッター・ボックスに立つ・・
 ちなみに現在のぼくは左でも打てないことはないんだけれども、
 小学校、中学校、高校、大学、成人を通じて、
 その後、左バッター・ボックスに立ったことはほとんどない
(右で打つ練習だけでも大変なのに、左までやってられっかい!
 という怠慢性から・笑)

 打てなかったらどうしよう?なんていう心配や、
 まして代打の責任感や重圧感なんてものもまったくなかった
 何せ、野球そのものを全然知らないんだからさ(笑)

 ボール・カウントもまったく憶えていないが、
 たぶん、その何球めかまでは1度も、
 バットじゃなくて竹竿にかすりもしなかったと思う
 ほら、難しいじゃん・・ 当たるわけないよ、こんなもん・・

 ちなみにボール・カウントだけは何故かその後、母親から教わっている

 実家に、攻撃側は“打”と“見”(ヒッティングと待球ね)、
 守備側は“S”と“B”(ストライクとボールね)の小さなコマを、
 軍人将棋のように、それぞれどちらか片方を同時に出して、
“S”と“見”または“B”と“打”ならストライク、“B”と“見”ならボール、
“S”と“打”ならサイコロを振って打球の行方を決める野球ゲームがあった
 そのゲームで何故か母親と対戦していたときに、
 ぼくは打たれたくないので“B”ばっかし出していたところ、
 そーいう思惑を見抜くのは天才的な女故に、母親は“見”しか出さナイ・・
 で、
“はいっ、フォアボールね、あたしは1塁に出るわよ~ん”
“な!な!な!な!何でっ!?”
“何云ってんのよお? ボール4回でフォアボールって云うの!
 フォアボールは1塁に行けるの!”
“うそお・・ 知らなかった”

 母親が子どもの頃にはまだ文盲の子がそのへんにいっぱいいたらしい
 母親はその子たちが持ってくる、川上だの大下だのが掲載されていた、
 野球雑誌を読んでやっているときに覚えたらしい・・

 ぼくは赤バットでも青バットでもなく、苔と泥が付いた竹竿だったけれども、 
 その何球めかを、ひっ叩いてみたら上手い具合に何とか当たった
 それもジャスト・ミートだった

 不思議なもので、そーいうときの手の平の感触は、
 いくつになっても憶えているもんなんだよねえ・・
 ぼくはたぶん、もの凄くヘッドアップしていたに違いない
 校長室の棟の外壁と平行になって飛んでいくボールを観た

 ぼくはその打席に立つ前に受けた説明どおりに、
 まず1塁(と云っても、鉄棒の脚か何か)に向かって走り、
 次に2塁兼3塁(何か忘れた)に向かって方向を変え、
 ちゃんとそこに触塁してから、さっき打った場所に戻ってきた
 ボールは鉄筋校舎の水飲み場のほうまで飛んで行ってしまい、
 相手方のひとたちが皆んなで拾いに行ったままである

 生涯初打席初本塁打・・

 そのあと、その野球を続けた記憶はない
 ひょっとしたら最初から一打席限りの一振り稼業だったのかも・・
 んー、まさにあぶさん(笑)

 帰り途、非常にいい心持ちだったこともよく憶えている
 早くうちに帰って父親や母親に話したくてたまらなかった
 それはいま思うと、ホームランを打ったからではない
(何せ野球を知らないんだから、ホームランの価値もわかってナイ・笑)
 それはたぶん野球そのものに参加できたことであり、
 名まえも知らない4年生たちから、まともに相手にされて、
 まともに遊んで貰えた嬉しさだったと思う

 その後、名門坂本5丁目子供会ソフトボール部では、
 練習試合では何本か打っているものの、
 公式戦に於ける本塁打はたぶん0・・
 これもまた名門坂本中学校野球部でも0・・
 さらにまた名門横須賀高校ソフトボール部では2・・
(これは2打席連続で当時の県大会記録だったらしい・笑)
 たかが大学の昼休みに毎年開催されている、
 レクリエーションとしてのソフトボール大会でも0・・
 さらにもっと名門横須賀レイダースでは在籍20数年間で1・・

 どうもホームランにはあんまし縁がないらしい
 いいよ、ぼくはアカホシで(笑)