手塚 治虫 | 元祖!ジェイク鈴木回想録

元祖!ジェイク鈴木回想録

私の記憶や記録とともに〝あの頃〟にレイドバックしてみませんか?

 

 
 2001年3月12日午後。
通算6度目となる来日公演で在京していた、KISSのジィン・シモンズ氏の記者会見に列席する機会に恵まれた。その際はCスポのOさん、本当にありがとう!
 生涯に遺る、超絶な日でした!
 
 会見の主旨はツアーとは関係なく、ジィンが新たに始めた自作の版画の販促プロモーションで、作品は『LIBERTY』と題された1点のみで、限定250枚。1枚¥46万9千円。税別也。(笑)
 ジィンのこのテの活動は半分冗談で訊いていればいいが、音楽ではなく美術分野の新ビジネス故に、自身のヴィジュアル体験として日本のアニメ『ASTRO BOY』・・、要するに『鉄腕アトム』等を観て育ったこと等を語っていた。
 
 因みに、日本国内に於けるTVアニメ『鉄腕アトム』の放映開始は1963年1月。アメリカ国内に於けるTV放映の開始は同年9月。1949年8月25日生まれで、9歳の時にイスラエルからアメリカに移住していたジィンが同作品を観たのは、幼かったとしても14歳以降になる。また版画『LIBERTY』は、その移住体験を物語る内容らしい。
 
 とは云え、何たってジィン・シモンズである。本物である。唯、観られればいい、同じ時間を同じ場所で過越せれば、唯、それだけでいい。その程度のミーハー根性1,000%爆裂で列席。席は無論、前後6〜7列あった最前列の中央で、当然、ジィンの真正面。
 僅か2〜3mの距離で約1時間、生ジィンを堪能させて頂けたワケだ。
 
 記者席はジィンを中心に左右に大きく扇状に拡がっていて、左奥のほうに居た記者が長い質問して、ジィンはそちらに顔を向けて通訳を待っていた。私は彼の顔の左側面を「案外、下クチビルが突き出てるんだな・・」等と観察していたら、無遠慮な視線に気が付かれたのか、ジィンはふと、こちらを向いて、上クチビルと下クチビルを同時に捻る、例の変顔を瞬時ながら観せてくれた。おおおおおおおおお!
 私も出来るが、修得に10年以上かかった離れ業なんだぜ?リョーガ。
 
 それもまた超絶中の超絶な想い出だったが、サプライズは更に続く。
質問の終盤、私の真後ろに腰掛けていた方が挙手して指名されて起立して、
「私は、先程のお話にあった『ASTRO BOY』の作者の娘なのですが・・。」
 
 はあ!?『ASTRO BOY』、即ち『鉄腕アトム』の作者の娘ってこたぁ、即ち(その時は既に、故)手塚 治虫大先生の娘さんじゃねーかよ!?
 思わず振り返ると、真後ろ50cm位の至近距離に『三つ目がとおる』(週刊『少年マガジン』誌:1974〜1978)の和登(わと)さんが居た。
 
 ご存知かどうか、『三つ目がとおる』の主人公の中坊、写楽 保介(しゃらく ほうすけ)は、始終コンビを組んでいるヒロインの和登さんの半分位しか身長がないため、和登さんは写楽から観て、見上げた角度で描かれていることが多い。その時も質問している和登さん・・、じゃなくて、手塚 るみ子さんは起立していて、私は腰掛けたままだったから、やはり見上げた角度だった。また同作品の掲載当時、私自身は写楽や和登さんと同じ中坊だった。
 
 後に「私は親不孝な娘でした」みたいな趣旨のTV番組で観た時には、どこにでも居そうな普通の30代の女性と云うよりも、番組の趣旨に合わせた演出だったのか、ノー・メイクで小汚ねー女だったものの、その時は大好きなジィン・シモンズさんにお会い出来る、やはり特別な日だったのか、フル・メイク!フル・オシャレ!の完全装備!!! エンジ色のベレー帽まで被っていた。TV映りよりも格段に顔が小さく、鼻だけがお父上に似て異様にでかい。手足が細くて、まるでマンガ。(笑)
 まさに何年振りかでお会いした、その後の和登さんがそこに居た。
 
 巨匠の良心を観た気がしたね。
 
 自らの作品の中で、美しい女性や心優しい女性を描く時は常に自らの愛娘をモチーフにしていたみたいで。『三つ目がとおる』の和登さんのみならず、あのテの顔は『ブラック・ジャック』を始め、多数の手塚作品で頻繁に描かれている。
 娘も娘で、その父が描いた理想に叛意はないみたいで。
 
 マンガの巨匠は『鉄腕アトム』を描き、KISSの巨匠はそれを観て育った。
マンガの巨匠の娘を始め、我々は『鉄腕アトム』を観て『ブラック・ジャック』や『三つ目がとおる』を読んで、KISSを聴いて育った。
 
 素晴らしい!
 
 
※タイトル、文中敬称略(の箇所も有)
※参照:月刊『GOLD WAX』2001年4月号
※改訂:2021年10月13日