“いじめ”問題に関する報道で、学校や先生の対応に関するニュースにふれるたびに、「それだけで、いいのかな…?」なんて思います。
残念ながら学校が“いじめ”の舞台となることは多く、その管理に関する責任を負うのは学校や先生であることは、間違いないのですが…。
だからといって、“管理責任”という言葉を振りかざして、そこ“だけ”に批判が集中しがちな昨今の風潮には、正直なところ違和を感じるし、ともすると、そこに新たな“いじめ”の構図すら見えてくる。
しかも、批判する側が発する意見は、社会正義にも道義的にも正論であるには違いないので、どんな反論も言い訳も許さない強烈なもの。批判された側は、いよいよ追い込まれる。
責任を問うという行為そのものは否定しませんし、結果には必ず原因があるので、それをつきとめることも大切です。
でも、正論という武器を振りかざして徹底的に追い込んでしまったら、本質的な部分は、いよいよ見えてこなくなるように思います。
SOSを感知できなかったのは、学校や先生だけの責任なのかな…?
本質的な問題は、もっと根深い所にあると思うのですが、「とりあえず一番批判しやすいところに、全責任をふっかけてしまえ!」…という印象を受けてしまうことがあるのは、僕だけなのでしょうか…?
※僕自身は学校の先生でもないし、友人・知人にも学校の先生はいませんので、特段彼らを擁護するような立場にいるわけでは、ありません。念のため。