「私にとってのオウム真理教・地下鉄サリン事件1」 by ピッピ
今日、坂本弁護士一家事件の裁判が、終結しました。
たくさんの人の命を奪って、今でも障害が残る人たちがたくさんいて、世間を混乱におとしいれたオウム真理教。
あの頃、私は、地下鉄サリン事件で死者が出た駅から会社に通っていました。
事件が起こったのは、確か8時半前後。
9時始まりの会社が多く、最もたくさんの人が電車を使う時間帯です。
その日は月曜日で、翌日火曜日は春分の日で休み。
なので私は、有休を取り連休にして、香港に旅行していた時でした。
そのおかげで、難を逃れました。
事件の日の夕方帰国して、成田から実家へ電話した時の、母の安堵の声をまだ覚えています。
「あんたっ!無事だよね!香港行ってたんだよねっ!旅行やめて会社行ってないよね!!
地下鉄で毒ガスがねっ!あんたが使ってる駅なのよ!たくさんの人が亡くなってねっ!!」
「大丈夫大丈夫。こうやって電話してんじゃん。毒ガスって何いってるの?」
その時は、何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。
幸い、会社の人たちも、偶然みんな無事でした。
当日は、パトカーや救急車の音がひっきりなしだったそうです。
でも、お得意様等々、同じ電車に乗り合わせて体調を悪くした人たちの話には、ことかきませんでした。
この事件で亡くなった被害者で、最後の最後に身元が判明した男性。
会社の近くで、靴磨きやかかとの修理をしてくれるおじいちゃんで、私も何回か直してもらった方でした。
寡黙だけど優しくて、ここで直してもらうと、ハイヒールのかかとが結構長く持ちました。
仕事はしっかりのおじいちゃんだったんです。
テレビで、息子さんがインタビューに出ていました。
もういい年だから、そろそろ仕事を終わりにして、家でのんびり趣味をしようと相談していた矢先だった。
こんなことなら、もっと早く引退させるべきだった。
前々からやめたらと勧めていたけど、皆さんが喜んでくれるから、お客さんの喜ぶ顔が見たいから、体が動くうちは行きたいと言うので、そんなに好きならと認めていたのに。
なぜ親父がこんな・・・
歩道の一角には、おじいちゃんの道具等をしまっておく、ちょっとしたスペースがありました。
そこには記事が貼られ、お礼の言葉や悼む言葉が貼られ、たくさんのお花等が供えられました。
長い間お花が絶えることはなく、撤去されたのもずいぶんたってからのことでした。
後日へ続く。
