*サン=テグジュペリ年表 ④* | ミスター・ビーンのお気楽ブログ

ミスター・ビーンのお気楽ブログ

好きな音楽の話題を中心に、気の向くままに書いていきます。

≪サン=テグジュペリ年表④≫

1917年
アントワーヌはこの年バカロレア(大学入学資格試験)に合格します。もっとも、その成績はあまり芳しいものではなかったようです。

夏には悲しい出来事が起こります。遊び相手であり、相談相手であった弟のフランソワが亡くなったのです。フランソワは関節リュウマチに苦しんでいたのですが、心膜炎を併発し7月の末に帰らぬ人となりました。
弟の死がもたらした深い悲しみを契機に、アントワーヌの思春期は終わり彼は大人へと成長していきます。

将来の目標を海軍軍人に定めた彼は、グランドゼコール(grandes écoles) の一つである海軍兵学校(l'Ecole Navale)を受験することに決めて、パリの進学校、サン=ルイ高校に入り猛勉強を始めます。
グランドゼコールは大学よりも格上の高等専門学校で、一般大学のようにバカロレアだけでは入学できず、厳しい選抜試験があるのです。

1918年
この年の春、戦局がますます厳しくなり、サン=ルイ高校の生徒たちはラカナル高校(le Lycée Lakanal)に疎開させられます。アントワーヌは後に彼の婚約者となるルイーズ・ド・ヴィルモラン(Louise de Vilmorin)を知ることになります。

1919年
1月、サン=ルイ高校での講義を受け続けながら彼は規律の厳しいイエズス会派のボシュエ高校(l'Ecole Bossuet)の寄宿生になります。これは甘やかされて育てられたアントワーヌに対する母の配慮であったようです。
6月の海軍兵学校の入試結果は、理系科目は優秀でしたが文系科目が不十分であり、結果は落第でした。翌年の再受験は年齢制限にひっかかってしまい無理なので、彼はやむなく10月に国立高等美術専門学校(l'École nationale supérieure des beaux-arts)の建築科に入り、15か月間、聴講生として授業を受けることになります。

1920年
母マリーは、出来る限りの援助を行ったのですが、厳しい財政事情はままならず、アントワーヌは衣食住その他で従姉のイヴォンヌ・ド・レトランジュ(Yvonne de Lestrange)の好意を受けることになります。
彼はまた、小遣いを稼ぐために様々なアルバイトを行い、時には数週間にわたりオペラの端役を務めることもありました。


海軍兵学校(1936年)
$ミスター・ビーンのお気楽ブログ-1936年当時の海軍兵学校




≪サン=テグジュペリの言葉≫
« Le chef est celui qui prend tout en charge. Il dit : “J’ai été battu”. Il ne dit pas : “Mes soldats ont été battus”. »
(Extrait du Pilote de guerre)


「隊長とは、全ての責任を自分で引き受ける者だ。『俺は敗れた』とは言っても、『部下の兵隊が敗れた』とは言わないものだ。」
(戦うパイロットより)


サン=テグジュペリ

« Toutes les grandes personnes ont d’abord été des enfants, mais peu d’entre elles s’en souviennent. »
(Extrait du petit prince)


「大人は誰でも、最初は子供でした。でも、殆どの大人がそのことを忘れています。」
(星の王子さまより)


サン=テグジュペリ

(ミスター・ビーン訳)

ペタしてね